「シャーロック」のスピードについて行けない身となったが、「創造」はやめたくないね

2013.1.5

 年が改まった。旧年末はシャーロック・ホームズのドラマ(DVD版)を観て楽しんだ。原作に「忠実」に作られたジェレミー・ブレッド主演の「シャーロック・ホームズ」はもう何回となく観た。しかし残念ながらこのシリーズは、ブレッドの病気でかなりの作を残して中断のやむなきに至っている。1954年から1955年にかけて製作され、ロナルド・ハワード主演の「探偵シャーロック・ホームズ」(全40話)は最近、廉価版で出た。かつて「シャーロック・ホームズの殺しのドレス」という題のものを独立で観た(購入した)ことがあった。モノクロ版なのはいいとして、ホームズ以外あまりにもアホウなので、話がたわいなく、しかも作りがなおざりだ。ヒッチコック劇場のようなひねりもない。ホームズから毒をなくしたらただのマンガ以下になる。ただし、ブレット主演のシリーズとは異なり、なぜか美しい女が数多く登場する。

 もっとも興味深かったのは映画「ヤング・シャーロック ピラミッドの謎」(1985)である。確かTVの洋画劇場で2度ほど観た。ホームズがまだ探偵になるまえの冒険譚で、一種のチームワークよろしき知的技術的探偵小説である。これに対して「ヤング・シャーロック・ホームズ 対決!モリアーティ教授」(2002)は、ワトソンと共同してモリアーティと闘い、なぜホームズが「女」嫌いになったのか、なぜ「麻薬」に取り憑かれたのかの「謎」を解き明かしてくれる。「ヤング」はどちらもワトソン役が個性的でいい。「シャーロック・ホームズの冒険 特別編」と銘打たれて発売された「シャーロック・ホームズの私生活」は、ホームズの兄のマイクロフトが黒幕のスパイ事件と重なって事件が進行するが、一寸以上にたわいない。

 それに最近評判のロシア版ホームズいわれるTV「シャーロック・ホームズとワトソン博士」(1979)所収の「交流」(まだらの紐)と「血の署名」(緋色の研究)と本邦2枚目に当たる「バスカヴィル家の犬」は、色調が暗く悪く、探偵もワトソンも、いま二である。つまりはアクセントがない。レストレードのアホぽさったら、たまらない。スコットランドヤードの拙劣さは、捜査方法のちがい、個人対組織にあるのだというのがわからないのだろうか。

 しかしなんといっても「シャーロック」1・2あわせて6作、NHKで放映されたのには衝撃を受けた。たしかに、19世紀末のロンドンは、世界最先端の近代産業と技術の都市である。伝書鳩かわりの少年たちとスマートフォンが情報伝達で同じ位置にあり、ハンサム(二輪馬車)に変わって車が疾駆する。しかし人を殺す技術はそんなに違わない。毒・刃物・拳銃、動機もほとんど変わらない。スパイと暴力団が暗躍し、犯罪の裏に「金」がある。国家機密さえ易々と取引の材料になる。しかし殺人のさいごの動機は「怨念」である。この怨念は相手を抹殺する以外だれにも、なにによっても解消されない。モリアーティは、自分が犯罪王になり闇の世界に君臨する「思い」をことごとく阻むホームズへの怨念を晴らすため、自分の命を投げ出すことにためらいはない。ただし、わたしは70を超えている。21世紀のスピード感覚について行くためには、無念をかみしめながらも、2~3回観なければならない。DVDが必要な理由でもある。

 そうそうこの1週間、芭蕉をずっと読んできた。芭蕉は51年の生涯で、しかも最後の1年弱、一時は門を閉じて人との交流を断ち、それまでの「わび」「ほそみ」を投げ棄てるような境位「かるみ」を主張した。もちろん弟子たちこそとまどったに違いない。この「かるみ」とはいかなるものか。どう表現すべきか。もちろん芭蕉だけの問題ではない。「老懶」である。肉体も精神も衰退する。大小のちがいはあれ、わたし個人にかんすることでもある。「わび」と「かるみ」を「かるみ」を根底において考える。軽い、変わる、「造化」(創造)に終わりはない。有限な人間が無限を目指す。世俗について世俗をつねに超えてゆく。「わび」に固着すると「わび」がたんなる世俗になる。因習にだ。これを断たなければならない。これが芭蕉の立言で、しかし芸術、学問、技術等々に変わらない態度である。日々新たな芭蕉のなかにすでに蕪村が、そして子規が予定されている。こんなことを考え、書いてみた。何か少し落ち着きをえたようだ。