◆210522 読書日々 1039 コロナ対策に万全を尽し、東京オリンピックを乗り切れ
昨金曜日、この日記をすっかり忘れ去っていた。ま、無為に過ごしたわけでも、気散じに興じたわけでもない。ひさしぶりに「熱中」(?)することがあったからだ。
ところで一言。後期高齢者に対するワクチン接種の「受付」をうけたという連絡が、行きつけの病院からあった。どういう経過を取るのか、実施日をはじめ、予め知ることはできないが、もちろん、「登録」は妻がやってくれた。助かる。
1 わたしは、断然、東京オリンピックを見たい派である。オリンピックの「前」と「後」に、どの国でも、開催反対派がわんさと出る。でも開催中は見ないのか、見たくないのか。たかがスポーツというなかれ。
「たかが」でないものがあるか? 国民も政府も開催地も、全力を挙げてコロナ対策をして、東京オリンピックを成功させる、くらいの熱気を示しても、いいのではないのか? オリンピックを負の遺産にしてはならない。東日本大震災も降りかかった不可避の「事故」=「災厄」なら、コロナも「災厄」=「事故」である。降りかかった災厄は払わなければならない。日本は、日本人は、払ってきたではないか。敗戦にも、敗戦後の無残・悲惨さにも、そして「バブル崩壊」にもだ。
日本から震災をなくすことはできない。起ったら、全力を挙げて修復・補強する。たかが震災ではないか。たかがコロナ禍である。たかがオリンピックである。オリンピック期間中、コロナ対策に万全を尽せなくて、どうして疫病を克服できるの?! 日本だけでなく、全世界から観客を呼ぼうとしないで、何の医療先進国といえるの?
2 私は「新奇」なもの、「未知」のものが好きだ。もちろん、古いもの、「伝統」あるものも嫌いではない。各駅停車に乗らないと、体がむずむずして、堪らなくなる。だが、新幹線があるから、なおのこと各停が好ましい。名古屋から飛騨高山までを、小春日和のなか、各停で、ぼそーっと腰を落とし、高山から富山まで土砂降りの中を特急で夕ぐれの車窓に目を据えて突っ切る。快感! であった。
オリンピックは、世界中から最強の選手たちが集まり、競う。単純かつ明瞭な祭典だ。その祭典を成功させるために、コロナ対策に万全を期す。これくらい出来ないの?! 出場選手やその親団体だって、「来た! 見た! 勝った!」くらいの発信をしてもよさそうだ。「私を誉めてやりたい!」などという台詞など、聞きたくないね。「コロナなんて、飛んでいけー」というくらいの単純明瞭な心意気を示して欲しいね。
選手等が、被害者面をするのはいただけない。堂々とコロナ対策を示して欲しい、わたしたちもその先頭に立つ、と大声で「世論」に訴えるべきだ。「そんなの関係ない!」てか。「世間にご迷惑を掛けますので、……、」と言葉を濁すのかい。
世論、政府、東京都、それに医療関係者やボランティアをさえ動かせなくて、何のオリンピックか、といいたい。ただのお仕着せの「運動会」ではないのだ。
3 モスクワオリンピックに不参加を決めた日本政府に対し、柔道の山下泰裕選手をはじめ、泣いて「不参加の撤回」を訴えた。そう、瀬古の全盛期だった。ソ連のアフガン侵攻に抗して、米政府が不参加決定を受けた、日本政府の決定に対する「抗議」であった。
その山下(日本オリンピック委員会=JOC会長)や瀬古(日本陸連理事)たちが、現在、日本アマチュアスポーツのリーダーになっている。彼らはどうして、声を大にし、組織決定をして、政府や世論に対し、正面切って、「オリンピックにもコロナにも勝とう!」と訴えないの。まだ、「私を誉めてやりたい」式の個人心情の枠内に止まっているんじゃない。そう疑っちゃうね。
4 トイレ本に、谷沢永一・渡部昇一『人生後半に読むべき本』(PHP 2006)を取りだした。両先生、後期高齢者に入ったばかりの時期に当る。この本、すぐに読んだ(筈だ)が、まったく失念していた。谷沢先生は東日本大震災の直前に、渡部先生は平成天皇の「譲位」決定(憲法違反)の直後になくなった。忘れがたい記憶だ。ところがこの本、記憶の外に置かれ、しかもサラのように新しい。