読書日々 1045

◆210702 読書日々 1045 100歳で、叔母が亡くなって、思うこと
 腹が多少下って、カゼ気味の故かと思ったが、どうも冷蔵庫に長期(?)保存していた期限切れの牛乳を飲んだ影響らしい。よく父が牛乳を飲んで、腹を下していたことを思い起こしている。
 1 その父は4男6女の長男だった。すぐ下の叔母(2女喜美子)が、100歳で亡くなって、その通夜に参列。久しぶりにイトコたちに会う。ちょっと前に愛子(6女)さんが亡くなっていたことを知った。これで父のキョウダイは、和子叔母(5女)一人になった(よう?)。
 和子叔母は、96歳、元気なうちに曽祖父や祖父、出来れば曽祖父、祖父、父のことを詳しく聞きたいと思ってきた。お会いして話をしたが、「明晰」そのもの。
 肉親の「ことば」はバイヤス(bias)がかかる。それでも(生きているうちに)聞いておきたいことがある。わたしの姉(長女)とともにだ。ところが、わたしのけっして少なくない欠点の一つが、肉親や親戚と会うことが億劫なのだ。自分でも実に厄介だと思ってしまう。「仕事」ならどこへでも飛んで行くが、私事でそれができない。してこなかった。今もってそうだ。
 イトコのなかで、残ったのは、わたしが男で一番上だ。母も11人キョウダイの長姉で、生きているのは一番下の叔母(礼子 在松江)さんだけになった。多少ともものを書いているのは、書き残すことができるのは、わたしだけになった。鷲田の系譜(といっても、幕末の高祖父以降)の詳細は、鷲田信夫(在高槻)さんが、実に詳しく調べてくれている。わたしの知っている部分は、訂正も含めて、きちんと残しておきたい。これも一つのわたしに課せられた「仕事」の一つだと思ってきた。
 曽祖父の77、祖父の50、父の33、母の13回忌のとき、その一端を果たしたが、まったくもって不十分だ。
 2 毎日、この日記を「校正」(?)している。遅々として進んでいる。
 何度も書いてきたが、『日本人の哲学』(全5巻全10部 2012~15)を仕上げることができた。
 可能ならば仕上げたいと思えた『福沢諭吉の事件簿』(全3巻 2019)を書きあげ、最後の最後と念じた『三宅雪嶺』(2021)を上梓することが出来た。ところがわたしの人生はまだ終わっていなかった。「余禄」だろうが、「神慮」にも思えた。
 書きたいテーマはある。だがその前に、自分の「人生」に、その周辺をも含めて、整理すべきことをやっておききたい。自伝めいたものは、数冊ある。否、物書きは、何を書こうと、「自分」を書いている。history→his-storyである。「自己表出」だ。
 他者の人生については、それはもう、数数え切れないくらい書いてきた。ほとんどは「注文」でだ。開高・谷沢・向井について書きとどめたことを一冊(1000頁超)にしたいと念じてもいる。でも鷲田の家のことは、(おそらく)わたししか書き残すことは出来ないだろう、と思える。
 わたしとしては、それを残して何の価値があるのかと問われても、これも自己表出=自己価値であるとしかいいようがない。
 3 「車」という足を失って(妻に代行を頼める)、また「メガネ」という「脳」の入り口がぼやけても、そして「TV」という外部世界がうすぼんやりと極端に力を弱めてもても、それでも「老人」のこの三種の神器は、わたしをまだ見捨ててはいない。
 それにどうやらこうやら「モニター」という窓を通じてパソコンを動かすことはできる。残務整理くらいはまだできる。叔母と姉の「話し」を記し留めておきたい。そう強く念じる機会を、喜美子叔母の通夜が教えてくれた。それでも、会うのがやはりのこと億劫だね。
 4 大西巨人(1916~2014)は、その全著作を通じて、わたしを震撼させ、啓発した異例のマルクス主義者で小説家、評論家である。小説『神聖喜劇』と評論集『大西巨人文藝論叢 上・俗情との結託』『下・観念的発想の陥穽』は精神を発酵させ爆発に追い込む「中性子星」(neutron star)の魔力をもっている。その追随者をこそ爆破する力だ。いつも、わたしの好きな中野重治と比べ、その対極に置かざるをえないクリエーター、格力(=ことば)の人だった。全部を手放してしまったが、大西巨人文選(全4 みすず書房)を再購入・再読するか。