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三宅雪嶺 異例の哲学(言視舎)

三宅雪嶺 異例の哲学

◆210503 『三宅雪嶺  異例の哲学』
 つねに、一冊でも多く読んで貰いたい。可能ならば売れて欲しい。そう思って長く書いてきた。この最後となるやも知れない拙著も同じ思いである。
 雪嶺は膨大な量のあらゆる分野にわたる主題を、著書、エッセイ、コラム、多くは主宰する雑誌『日本及び日本人』『我観』(月2回刊)等で発表、またあらゆる媒体に、学生時代から晩年まで書き続けた、正真正銘のジャーナリストである。その雪嶺の真骨頂は、言葉の本当の意味で、〈哲学者〉=(「知」を愛する人)であった。
 わたしは、吉本隆明の敗戦後日本の哲学者(として生きた)典型とみなした。極論すれば、吉本には戦後思想のすべてがある、ということだ。対して雪嶺こそ、明治維新以降~敗戦期を生きた典型哲学者と位置づける。つまり、吉本は、雪嶺が嚇嚇たる勝利ののち〈敗北〉した地点から出発したといえる。雪嶺が日本思想の敗北因を抱え込んで死んだ、あとをだ。
 書きあげるのに、ずいぶん多くの時間を費やしたかに思えるが、雪嶺の〈全貌〉を紹介することに焦点を当てたからである。その哲学体系=全宇宙の生態史を、垣間見せようとしたからだ。
 わたしは、『吉本隆明論』(三一書房 1990)を書きあげて、一人前の哲学思想家として立つことができた、と思えた。一人の哲学者と対決してそのモノグラフィ(研究論文)を書きあげることができるかどうか、に哲学研究者の正否・真価がかかっている、と考えてきたからだ。
 本書はその最終論稿だが、余力があれば、もう一人、戦時ナチ(全体主義)批判の筆を執り、〈政治生態学者〉としてぶれることなく生き抜いた哲人ドラッカーを俎上にあげたく思っている。
 いかしいまは、この雪嶺論が一冊でも多く読まれますように、売れますように、と祈念している。

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「重層的非決定」吉本隆明の最終マナー(言視舎)

「重層的非決定」吉本隆明の最終マナー

 1 吉本隆明(1924=大14~2012=平24)は、20~21世紀最大の思想家(=哲学者)である。国内外を問わない。わたしも最大かつ無二の恩恵を受けた一人だ。その吉本さんに、「新稿」を加え、氏の「最後の言葉」とでもいうべき「決算書」(=本書)を提出することができた。そう思える。幸いだ。
 新稿の結構は、「非常時」の思考(「狼が来た!」)に陥らない、どんな災禍にあっても「常態」を失わない思考方式(マナー)を提示するものだ。
 この思考法(常識)を哲学の中心においたのは、デービッド・ヒューム(英 1711-76)である。ヒュームは、いかなる変事を前にしても、彼の思考マナーを変えなかった。「狼少年」ジャン・ジャック・ルソー(仏 1712-78)の「敵」である。
 2 わたしの最終「仕事」(著述)とみなしているのが『三宅雪嶺 異例の哲学』だ。
 その雪嶺こそ、ヒュームの思考を摂取した稀な日本人である。ところが、晩年、「非常時」の思考に陥り、「日米戦争やるべし!」へと、全言論活動を傾ける。
 雪嶺は、陸羯南〔くがかつなん〕とともに、大日本帝国憲法(立君民主政体)の成立(明22)を以て、「日本人ははじめて真の日本人になった」(なる契機をえた)、と宣したのだ。すごい〔ワンダフル〕!
 ところが雪嶺は、民主政体は「平時」の機関だ。実に無駄の多い、とくに議会は「おしゃべりの機関」に堕したと断じ、満州事変と5/15事件(軍部テロ 昭7)を「非常時」の開始、2/26事件(軍事クーデタ 昭12)を「非常時の非常時」、すなわち新体制=国家社会主義とし、日支事変から日米開戦を非常時の「解決コース」ととらえる。「後戻り不可能な思考」に陥ったのだ。
 3 吉本の最終思考法〔マナー〕である「重層的非決定」は何を語るか。
 ほかでもない「後戻り可能」な思考法だ。どんな危機、非常事に陥っても、リターン可能かつ解決可能な道はあるとする、「未来」に開かれた思考のことだ。
 だから「未曽有」で「前代未聞」な「事変」は存在しないという前提に立ち、解決の道を見いだそうという、ステップ・バイ・ステップでゆく、「開かれた思考法」だ。その思考原理が「多数の決」(デモクラシイ)である。「みんなで渡れば怖くない」や「朝令暮改」である。「試行錯誤」だ。
 何か、無責任でつまらないことをいっているように聞こえるだろう。そうではない、ということを三つの事例、「コロナを開く」「原発を開く」「国を開く」で、「非常時」がお好きな「言説」に「否!」の原理(プリンスプル)を明示しよう。(「まえがきより」)

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知的読解力養成講座(言視舎)

知的読解力養成講座

あとがき
1 わたしは、大事なことは、大小にかかわらず、親をも含めて「他者」に相談しない。こういう性癖(habits)で生きるのを常としてきた。それで、しなくてもいい失敗を重ねたといっていい。
  それでも、迷路に踏み込むこともあったが、その誤りを多少とも克服することができたのは、「本」があったからだ。そうそう、「本」を読んで、誤読を含め、間違いを犯すことも多々あった。だが、その誤りを訂正することができた(と思えた)のも、「本」を読み、理解し、判断してきたからだ。
  「読書」(書を読む)は「余暇」ではない。「仕事」に熟達し、「人生」を豊かにすごすのに欠かすことができないものなのだ。
  そんな?! むしろ逆で、仕事に熟逹し、人生を豊かにするためには、面倒くさい書を読み解するなどは、よけいで辛気くさいことにすぎない。こう考えている人が多いだろう。そうではない、と強くいいたい。
2 「人間」とは何か? 人間はどうして人間以外のものから人間になったのか? 自立した人間になるのか? 他でもない、「ことば」をもったからだ。「ことば」を自在に使うこと(読み解し書く)ができるからだ。
  つまり、「人間」とは「ことば」であるということだ。人間は「ことば」によって「仕事」を、そして「世界」(世間)をよりよく知りかつ理解する。
  「ことば」によってできあがったものが「本」(book paper)というものだ。「本」を通して、仕事を、人間を、人間世界を読みかつ理解する。それが人間業〔アート〕だ。人間の「本質」といっていい。
  これが「本書」を書いた理由だ。この思いが皆さんにすこしでも通じれば幸いだ。(78歳を直前にして)

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福沢諭吉の事件簿III(言視舎)

福沢諭吉の事件簿III

最後から二番目の著作
『日本人の哲学』(全五巻全十部)を最後の著作と思い、渾身の思いで書いた。 幸い、力が残っていた。念願の福沢諭吉論と三宅雪嶺論を書ける力が残っている のではと思えた。それで四年余り、先ず諭吉論Ⅰ~Ⅲである。
 ミステリ仕立ての時代小説だ。諭吉は仕事人としては、作家であり、起業家で あり、教育者だ。その諭吉に「謎」の部分、まったく『福翁自伝』には登場しない「顔」 がある。思想家=哲学者として「無視」できない顔で、その中心部分を明らかにし たい。
 「論文」スタイルで書くのは、さほど困難ではないように思えた。だが困難を覚 悟で小説にした。なぜか?
 福沢論の基本となったのは、三宅雪嶺(哲学者)で、その雪嶺に歴史と人物評 価の核心点をもっとも教えられたのが司馬遼太郎だ。ところが、司馬は、残念な がら、諭吉を描かなかったばかりか、諭吉が書かなかった「自分」史と根本で違う メッセージを与え続けた。司馬の限界で、司馬好きのわたしにとって見過ごすこ とはできない。
 「異論」を展開したいのではない。諭吉の「謎」は諭吉の著作にある。これが 「正論」だ。この定則をあきらかにするために、二人の人物に登場、活躍を願った。 坂本竜馬であり、福沢由吉(ゆきち)である。
 くわえて、この長篇は、幕末~日清戦争間の重要事件=歴史を知ってもらう縁 (よすが)となればと、くわえて生きた諭吉の「貌」が明らかになることを願う。
 最後に興味津々かつ知的な時代小説であることをお約束します。(20190804)

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福沢諭吉の事件簿Ⅱ(言視舎)

福沢諭吉の事件簿Ⅱ

福沢諭吉の事件簿Ⅰからのつづき)
3 福沢の思想上の位置
 福沢諭吉である。もとよりわたしが書くのだ。「哲学者」諭吉をである。
 したがってこの小説には、家族愛に満ちた諭吉は寸毫も登場しない。また諭吉はすぐれた起業家である。その「弟子」たちも、日本の財閥マネジャーとして活躍したが、本書には少数が例外的に登場するにすぎない。
 わたしは近代日本の哲学者「三傑」を、福沢諭吉、三宅雪嶺、徳富蘇峰とする(『日本人の哲学 1』)。この場合、「哲学」とは、「大学哲学〔スコラ〕」(純哲)ではなく、孔子とプラトンがいう「愛知=知の総体」(雑知)のことだ。西田幾多郎ではなく三宅雪嶺の「知」である。
 諭吉は『西洋紀聞』でデビューし、『学問のすゝめで』で押しも押されもせぬ国民作家になり、「腐儒」を弾劾し、「門閥制度は親の敵」と断じる。だが諭吉は「儒学」の徒であり、「尊皇」家だ。幕吏に列してさえいる。
 諭吉の思想は、義塾の設立と経営のなかで鍛えられ、作家・教育者・ジャーナリストという大衆〔ポピュラー〕な場で活躍した。雪嶺、蘇峰に共通な、明治期哲学者の特徴でもある。
4 三宅・司馬・西部、すべてわたしのモノローグ=ダイアローク
 最終章(Ⅲ、17「富国と強兵」)で、三宅雪嶺、司馬遼太郎、西部邁の三氏に登場を願い、架空対談におよんだ。諭吉をよく知る三氏であり、わたしがよく知る三氏でもある。
 三宅は「国粋保存」を主張した。司馬は、福沢の徒のように見えるが、「脱亜論」の「瑕瑾」を言い立てた。西部は諭吉を儒学の徒、「実学」=「人間関係学」とみなす人として、欧化主義者・合理主義者とみなす俗論を徹底批判する。
 この対談(正しくは鼎談)は、いうまでもなく、すべてわたしのモノローグ(独白)である。そして忌憚なくいえば、自分のなかに他者を飼い養うほかないのが、思想をこととするものの作法である。この作品が、時代小説の体をなすにいたった理由でもある。
 肩の荷が下りた。まだ別な課題が残っているように感じるが、いまは考えまい。

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