読書日々 987

◆200522 読書日々 987 鉄道記三態 宮脇/夏川/鮎川
 陽はまぶしいが、風は冷たい。でも、もうすぐ6月だ。夏のとば口に達しているのだ。
 1 コロナのゆえか、見逃していたTV番組の再・再放送を見ることができる。その最たるものが、新日本風土記「松本清張の鉄道旅」で、もっとすごかったのは関川夏央の「世界の山岳鉄道」南米アンデス編である。もちろん(?)夏川は清張の鉄道旅をたどるエッセイも書いている。
 結婚してまだ子が生れなかった頃だから、1971年前後の頃ではなかったろうか? 金も暇もなかったが、だからこそ大阪近辺のローカル線にただただ乗るだけの「旅」をした。黙って吊革に掴まっているだけの旅といっていい。
 福知山近辺のローカル線を乗り継いだり、姫路城に足を伸ばしたり、紀州半島を一周する「旅」を敢行したり、数えてみればこのころからローカル線マニア(?)だったように思える。しかしわたしの鉄旅は、黙って乗るだけで、食事も、駅弁さえない。それに懲りたのか、妻の方は子どもができて以降わたしと一緒の気車旅を、誘っても同行しなくなった。(ま、子供をつれての気車は、とても厄介であったが。)
 そんななかでも圧巻だったのは、奥出雲への旅だ。妻の叔父(?)=神父(今井)さんが、奥さんと二人で「横井」の相愛教会に赴任していたときだ。ポツンと「休暇」(?)が取れ、とにもかくにも時間表で「横井」を見つけ、さっそく電車に乗った。乗り継ぎだ。まさに「秘境」のような山また山のなかだった。この横田の隣が「亀嵩」(かめだけ)駅、清張作『砂の器』のキイポイントである。もうこれだけで「得」をしたような気分になった。
 そういえば横田付近は「砂鉄」の産地で、蹈鞴(たたら)場のあったところだ。「砂の器」のキイワードが「かめだけ」と「癩」(ハンセン病)で、わたしには「砂鉄」がすぐに想像されたが、この三点セットか、宮崎駿「もののけ姫」の世界でもある。そういえば宮崎はついにこの作品を抜く映画を作ることができていない。ま、難しいが。
 2 関川夏央『寝台急行「昭和」行』(NHK出版 2009)は『気車旅放浪記』(中央公論 2009)の姉妹編とでもいうべきエッセイ集で、編集者に仕事で汽車に乗りませんかといわれたら、断わることができない性格から生れた本だ。
 2 夏川(1949~)の鉄道作家における「先生」は宮脇俊三(1926~2003)で、その二作品とも宮脇俊三の二作品『時刻表2万キロ』(河出書房新社 1978)と『時刻表昭和史』(角川書店 1980)から生れたといっていい。
 年齢差でいうと、わたし(1942~)はずーっと関川に近いが、「歴史感覚」(時刻表)を尺度にすれば、ずっと宮脇の方に近い。さらにいえば鮎川哲也(1919~2002)にさえ近い。というか、宮脇や鮎川の時代感覚が、二人が生きた時代の多数感覚と多少(かなり)異質だ。戦前と戦後を連続感(センス)で掴もうとしている。関川とわたしが「多少」違うところの要点である。その違いは、関川とわたしの司馬遼太郎(1923~96)「理解」の違いとなって現れている(と思える)。
 3 この週、雪嶺『同時代史』(第四巻)で、日露戦争/欧州戦争の記述をたどってきた。文句なしの「挙国一致」の戦争が「終わり」、「中外」で「分断」がはじまる。分岐が大きくなる。間違いなく、太平洋を挟んだ日米の時代が始まった。欧米の動向が時代の推移を決定してきたのに対し、「日」という本性もマナーも異なった分子が登場したのだ。この「異分子」をどう処理したらいいのか、日本はどう自己処分したのか、『同時代史』第五巻の主題である。
 同時代史である。雪嶺が歴史を作るのではない。「追思考」(nachdenken)である。しかし何を切り取るか、である。「小説」ではないのだから、ぞんぶんに難しい。とくに「近」未来(同時代)の「裁断」は難しい。いちど切ってしまうと、元に戻らない。戻そうとしても時間がかかる。雪嶺は、敗戦の年末になくなった。