読書日々 986

◆200515 読書日々 986 コロナと共存!?
 今日、20度を超すという予報だが、午前10時を過ぎてすでに17度。ただし室内はまだまだ暖房が必須。寒がりだ。とくに手足が冷たい。ま、体温ももともと低い方で、昨日の検温で36度に届かない。ただし今日も快晴。
 1 谷口ジロー(画)・関川夏央(作)『坊っちゃんの時代』(全5巻)を熟考の末、やはり購入、ゆっくり開いている。面白い。
 漫画で熟読玩味したのは、白土三平と安彦良和の作品で、とくに白土『カムイ外伝』と安彦『ナムジ』以下の日本古代(神話期)を題材にしたものだ。
 三宅雪嶺『同時代史』の3・4巻は、『坊っちゃんの時代』と重なる。ただし関川はこの時代を江戸と連続する、それに対する郷愁を主調音に描こうとしている。それは一面で間違っていない。
 ただし漱石の遺作『明暗』(大正5)は、それ以前の全作品(『坊っちゃんの時代』)とはまったく異質の「構造」をもった、プルースト『失われた時を求めて』やジョイス『ダブリーナ』と拮抗する作品である。この意味で、江戸・明治と連続する日本近代文学と現代文学との画期を標す記念碑的作品なのだ。
 『明暗』には、それ以前の作品の基調をなす「低徊趣味」や「則天去私」等の東洋的衣装はまったく消え失せている。
 2 日露戦争に「勝利」し、南満洲の権益を独占し、韓(朝鮮半島)を併合し、とにもかくにも維新以降の挙国一致目標、「富国強兵」と「独立自尊」を歯を食いしばって遂行し、「列強」(一等国)の尻尾にたどり着いた日本国と国民が、「挙国一致」から「分裂」への道を歩み始めた画期が、大正五年(1916)なのだ。
 中村草田男(1901~83)の「降る雪や明治は遠くなりにけり」(昭和6=1931年)は、明治期に対する郷愁である。が、もはや戻らない「明治期」への惜別の歌でもあった。
 すでに文壇では新感覚主義(横光利一)や新心理主義(伊藤整)が登場している。漱石『明暗』はその走りでもあった。
 3 わたしは、自伝車に乗って、橋の欄干を飛び越して川のなかに埋没したことがある。小学生の時だ。中学の時、砂利道の国道をバイクにに載って配達していたとき、トラックに煽られ、車道から飛び出し、河原まで転落したことがある。自動車は、三回ほど先行車に追突し、大破している。三回とも妻が助手席に乗っていた。懲りたが、自転車・バイク・自動車は危険であることを重々知りながら、乗ることをやめなかった。ただ75歳で、視力を理由に免許証を返還した。
 とくに自転車は危険である。丸裸だから、バイクや自動車よりも危ない。(娘が農道の坂道を猛スピ-ドで下って、地面にたたきつけられ、顔にケガを負って、もう少しで美貌?を失うところであった。)
 自動車は走る凶器だという。じゃあ、バイクや自転車は凶器じゃないの。刃物はもとより、散歩だって安全ではない。(ちなみに酔ったら、タクシーに乗る。自分の足や目を信用していない。)
 新型ウイルスに曝されている。吉本隆明じゃないが、「自衛」が肝心、自分の身は最低限自分で守しかない。地震や洪水より「自衛」を講じやすいんじゃない? などというと顰蹙を買うだろう。だが「自衛」力を無力と見なさない。危険を過大視しない。
 TVであの中山教授がコロナと「共存」する時代だという。ウィルスは、熊とご同様、人間と「共存」しているの? 共存ならば、車との共存をふくめ、基本は「自衛」だろう。
 1970年代末、「石油危機」が叫ばれたとき、灯油を買うのに、寒空をタンクをもって行列に並んだが、ま、暖房なしでも死なないか、と思考し、一冬をやりすごしたことがある。大阪でのことで、妻が同意してくれたのだったが。これも自衛の一種だろう。「寒さ」と共存といいたいの? 我慢=自衛でしょう。