読書日々 954

◆191004 読書日々 954
蛇口の漏れではなかった。が、記憶漏れがもっとひどい。
 ポツポツ……、夜中、水の落ちる音が耳に届く。目ざめた。薄い布団を掻き上げ、流しに向かう。蛇口に触れてみるが、そこから漏れる音ではなさそう。耳を澄ますと、雨音らしい。静かに静かに落ちている。すーっと気持ちが落ち着いてくる。
 1 03日、高校の同期会に出た。二年続きだ。そこで道新に拙著、「諭吉の事件簿」のことが紹介(?)されていると(誰かが)教えてくれた。あいにくわたしは道新を取っていない。帰宅してグーグルで探したが、みつからない。でも以下のような記事(ブログ)にであった。

〈『福沢諭吉の事件簿Ⅲ(最終巻)』〔鷲田小弥太、言視社19.7.31〕を読了。この巻の事件は帝国憲法・国会開設、朝鮮国混乱、日清戦争、そして「脱亜論」。とりわけその論の背景はもとより、「独立自尊」を既刊とした福沢のその論の本意が克明に語られている。福沢の意をそのように感じていたのだが、この鷲田先生の小説で確認できた。ところで、この論の末の末に支那事変とその後の太平洋戦争があったのだが、それは福沢が亡くなってからのこと。かれは日清戦争を推進したのだが、その意思は後の戦争には結びつきにくい。ところで、著者はこの本を小説と標榜しているが、それは歴史はすべからく創作である(史実は書かれた時点で創作)と言う認識から。事実明治150年の最初の50年のことは、他の近現代史書よりこの小説のほうがわかりやすい。それにしてもこの小説が全20巻を超える『福沢諭吉全集』はもとより、幾多の福沢関係書を踏まえて創作されたようだが、そのアプローチは哲学者のそれである。福沢門下の末席に連なる者として、後輩諸君に『福翁自伝』を読んだら、次にこの小説を読むことを薦めたい。そしてもし余裕があったら、『学問のすゝめ』、次に『西洋事情』、『文明論之概略』を。〉(澁川雅俊 ‏ @livingwithbooks 20190920)
 ちなみに澁川さんは、1938年生まれ、慶応の図書館学科を出て、同大学図書館勤務、のちハワイ大学で学位を取って、慶大教授に転じた方(のよう)だ。2歳から本を読んでいると同ブログの自己紹介にある。拙著紹介、ありがとうございます。
 2 雨は静かに、今朝も降り続いている。昨晩の同期会のことを思い出そうとしたが、いつものようにぼんやりしている。
 三宅雪嶺の『同時代史』をじっくり読み直しているが、面白すぎて、それに挿入されている「資料」の字が細かすぎて、その落差に苦悶している。前はすらすら読めたのに「残念!」、ま、だれを恨んでもはじまらないしね。
 十五代将軍慶喜は、小栗忠順嫌いで、小栗と犬猿の仲だった勝海舟に幕府解消=江戸開城を任せた。雪嶺はそうとは書いていないが、小栗の「謀殺」は勝の仕掛けた「罠」だった、と暗にいっているように(わたしには)読めてしまう。ま、それもこれも、この「同時代史」が面白すぎるからでもあるが。
 3 山本夏彦『「戦前」という時代』(文藝春秋 1987)を「三」読した。
 夏彦さんといえば『室内』の編集兼発行人であった。一度「エッセイ」の執筆をご本人から依頼されたことがあった。(おそらく谷沢先生の推薦があったのではないか?)ただし、なにを、いつ書いたのか、ぼんやりして思い出すことができない。ちょっと緊張していたことを思い出す。こういうときは、いいものができない。
 山本さんは、文語文の「消滅」を日本のIdentityの「消滅」とみなして、論を張っている。それでも、大略でいえば、カント(独原文)を英語で済ませて研究(博士)論文を書くアメリカ人はまだしも、チャイナもコリアも、自国(語)のIdentityを失ってしまったのを見ていると、日本(語)はまだしもと思えてしまう。そうそう、丸谷才一は帝国憲法(文語文)より日本国憲法(口語文)のほうが、はるかに論理的で、意を尽くしている、と論じ、漢文も、漢詩も、文語文も、誇張的(「白髪三千丈」)で論理飛躍(無視)に満ちていると述べる。一理ある。「万世一系」などはその最たるものだろう。ただし神話的表現は誇張だが、万世一系といえるほど「比較を絶して」長く日本皇統が続いている(an Imperial throne occupied by a single dynasty from time immemorial 斉藤秀三郎・大和英)ことを示しているのだ。