読書日々 953

◆190927 読書日々 953
出来れば日本人全員に読んでもらいたい、売れて欲しい
 陽射しは強いが、風が涼しい。上着でひさしぶりに街に出た。目太間(めだま)、たぱす、かまえい、高屋敷、そしてきらくまでたどり着く。この半年では異例の多さだ。その間、『福沢諭吉の事件簿』(言視舎 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)、手持ち2セットを買ってもらった。うれしいかぎりだ。いつもは難解だと敬遠する人が、読んで推してくれる。感謝に堪ええない。
 発刊元には失礼極まりないが、売れるのを当てにして書いたのではない。しかし出したのだ。一冊でも多く読まれ、売れて欲しい。二千や一万などとケチなことをいうのではない。出来れば日本人全員に読んでもらいたい、売れて欲しい。こういう思いを、敬愛する大西巨人さんの尻尾にくっついて、密やかにだが(?)、叫んでみたい。
 街に出るとき、必ず、2~3セット持参する。なかなかの重さだ。もちろん押し売りなんかできない。それも行きつけの飲み屋で、本好きの人にそっと出すように、こんな本を出しました、と囁く。初めての小説である。本意では正面から諭吉論を書くつもりだった。それがフィクション仕立てになった。理由がある。諭吉の家は中津藩(豊前=大分県)の下級武士だったが、出身は信州の福沢村であった(ということだ)。偶然というわけでもなかったが、太田市(茨城)に「福沢」という在所を見つけた。そこからわたしの「諭吉」が動き始めた。「論文」では表現できない「諭吉」の複雑な言動の軌跡がはじまった。
 諭吉は「学者」であり「教師」であるが、「経営者」で、インダストリイ(産業・努力)を実践した、渋沢栄一(1840~1931)や五代才助(1935~85)とともに、日本近代資本主義の生みの親の一人でもある。三人が武士でり、結局「民」に場所を見いだしたのも面白い。一万円札が諭吉から渋沢に移るということだが、幸田露伴が渋沢栄一伝の執筆を(いやいや引き受けたものの)、噛んで吐いて捨てるように、栄一晩年の欺瞞を口にしている。
 2 物語が動き出すには、多少とも「当時」の風景が必要になる。現在から遡ることのできる「幻影」とでもいうべきものだ。幸い、常宿としていたホテル(?)が芝公園にあり、慶応も、神明町も、また蘭学塾が開かれた中津藩中・下屋敷は旧居留地(築地の北、聖路加病院のある赤石町も遠くない。夏の盛り、一人歩いてみた。ま、なにも見えてこなかったが。そして京や大坂は多少とも土地勘があった。
 竜馬については二冊書いている。『坂本竜馬の野望』(PHP 2009)と『寒がりやの竜馬』(言視舎 2015)で、竜馬も諭吉も人気はあるが、司馬『竜馬をゆく』や津本陽『龍馬』以外さして売れていない、フアンも買わない読まないようなのだ。
 わたしの作品の礎石に、竜馬(と諭吉)をおき、諭吉・伊藤博文・竜馬(そその弟子伊達小次郎=陸奥宗光)を配した。ま、伊藤はほとんど「影」で登場するに過ぎないが、大久保・伊藤・原と続く日本政治史の三人だ。
 3 Ⅲでは、朝鮮半島をめぐる日清の衝突を主軸にする。長く清の属州であった朝鮮は、日本の圧勝によって「独立」を宣言したが、お定まりの「貧国弱兵」で自立する力を扶養せず、ひたすら外交的手段を弄して切り抜けようとし、ついには日本に編入(日韓合併)された。
 諭吉は、朝鮮独立党の金玉均を支援し、そのクーデタ失敗(三日天下)後も援助を続けたが、あたかも朝鮮王が派遣した暗殺者に金が上海で暗殺されたのが「号砲」となって、日清がともに朝鮮に出兵し、大規模な戦争が起こった。このとき、国家衰滅の危機を訴えて諭吉は一万円を寄付している。などと書くと、諭吉年来の主張を裏切って、「脱亜入欧」=亜を捨て、欧に組みし、朝鮮半島の、ひいてはシナへの出兵をうながした、アジアの人民を裏切った許し得ない戦犯であると掣肘する人がいる。そうではない、というストーリイがわたしのものだ。
 4 わたしはこの物語を書いて、長く司馬さんの胎内で考えてきたが、その重しが多少とも取れたと思える。竜馬・陸奥宗光ー福沢諭吉ー伊藤博文・五代才助(友厚)の三対で、福沢を評価しうる、したがってその生涯もかなり違ったものとなる、という思惑をえることができた。そう確信できる。