読書日々 1107

◆220909 読書日々 1107 因循姑息=タイムキーパー?
 この時季、北海道では一年で一番いい季節だ。ま、台風の到来がなければだが。一昨日の風で、ベランダの鉢が倒れ、花がもぎ取られた。残念というほかないが、自然現象だ。
 といっても、この秋を満喫する気力というか、体力もない。それに万事にケチになる。「今しなければ、……」という「姑息」というか、「因循」になる。「時間を惜しむ」ということだ。若いときのクセが固まったのだろう。愚痴ってもはじまらない。まずは秋、満開なのだから。
 1 何度か紹介したが、わが家は、函館本線と千歳線に極至近距離で挟まれたところにある。昼間、同じジーゼルカーでも、地上と架上を走る客車の音が異なる。それでもひっきりなしに電車は走るが、ほとんど気にならない。ただし、真夜中、千歳線を走る長い貨物列車の音は、長く尾を引くように響くので、いつまでも耳に残っていいて、いいことに、耳鳴りと共鳴して、眠りを誘う。
 「ブラタモリ」の再放送で、十和田湖の神秘を深掘りしていた。自信はないが、私には初見だ。
 十和田湖は、中学の修学旅行で尋ねた。母が引率・同伴し、学友との距離がさらに開いたように思える。しかし、わたしにとって十和田湖と奥入瀬渓谷の美しさは、65年余を経て、いまにして残っている。十和田を訪ねたいと思い続けてきて、まだ再見に及んでいないが、ブラタモリがその美しさの原因の一つを再発見してくれたように思える。
 2 因循姑息(temporizer 時間コジキ)といいながら、この歳になるまで、北海道はほとんどすべての市町村に、都道府県のすべてに足を踏み入れた。別に全国をめぐるなどという目論見はなかった。が、ほとんどの地で、酒を飲んできた。それを「消印」とするようにである。
 ただ愛媛は、龍馬伝(『坂本龍馬の野望』PHP)を書くために龍馬の足跡を尋ね、ぐるっと車で駆け抜けただけだったから、酒を飲むことができなかった唯一の国である。
 いちばん酒を飲んだのは、地元ススキノと外国(ミラノ?)を別にすれば、鎌倉ではなかったろうか。巡礼仲間の岩崎さんと大村さんの3人で、どれほど飲んだか、ちょっと計算できないほどだった。私の感覚では、鎌倉駅前から、鶴ヶ丘八幡まで、真夏の夜を飲み倒したのではなかったろうか。いまでは、遠い遠い日々である。
 3 わたしの主要著作(およそ単行本100冊分)の「改定」作業を続けてきた。一区切りついた。残るは、『日本人の哲学』(全5巻・10部)『福沢諭吉の事件簿』(全3冊)『三宅雪嶺 異例の哲学』で、2012年退職後、完成を目ざし、12~21年、およそ10年間、心血を注いで成ったわたしの集成である。ただし、未刊行の著作が5冊ほどある。一押しが『古今東西今関西』である。そうそう「宰相論」もある。まだまだ、「因循姑息」たらざるをえない理由があるのだ。
 何で自分の庭の枯れ草を刈る体のことをしなくちゃならないのか? ま、我欲というのか、残せる(価値ありと自分で判断しうる)ものを、「デジタル」でもいいから残そう、とい祈念があるからだ。
 残してどうなるの? と問われたら、自己満足の類かな、と返答するほかない。まさに、茫々たる終端の準備に違いない。
 お前の80年余の人生は、300冊に近い著作を残して、茫々とした焼け野原だね、といわれれば、肯うしかない。それでも、一写でなりと残したい、というのがものを考え書いてきたものの屁理屈である。ただし、わたしの場合、因循姑息である。わかっているけど、やらざるをえない性である。関西では「いらち」という。開高健も谷沢永一も、表も裏もいらちだった。
 4 今日のビールはおいしいかな? 日がさんさんとこの部屋に降り注ぐ。そんな時刻にはまだはやいが、すでに缶を握っている自分の姿がモニターに映っている。今日も絶好調。バックは、藤田真央のモーツアルトだ。軽快そのもの。タン、タラタラターン・・・・