読書日々 672

◆140516 読書日々 672
「書く人生」の目算は、私的にいえば、まずまずではなかろうか
1 今年は雨が少ない。庭の草が伸びないのは助かるが(といって刈る人は女房だが)、野草の成長が遅い。それでも、フキ、根曲がりタケノコ、アイヌネギ、蕨をもうかなり食べた。上手い。食べ過ぎる。
 春先の野草採りでいちばん気をつけるべきは、漆の若葉や若木に触ることである。小さい時からこの漆に何度かぶれたか数え切れないほどにも感じている。いちばん危険なのは首筋で、かがんだ体をひょいと伸ばすと、若枝にちょっと触れでもしたら、もう大変だ。知らないうちに首に手がいき、触って掻いてしまって、赤くはれ上がりはじめる。痒さにはかなり辛抱できるものの、運動すると全身に広がる。汗と合体すると、かゆさが倍加する。こう書いているだけでもう痒く感じる。
 野草採りは楽しく、唯一の道楽のようなモノだったが、最近山に「熊」が出るというので、国有林に深く入り込むことが出来なくなった。ちまちまと家の近辺の開けたところをわずかにあさるだけになった。ま、30年も採ってきたのだからいいか。
2 またぞろ福沢諭吉の小説体の評伝に取りかかっている。1巻と2巻はすでに脱稿したが、長く放っておくと一から始めるよりもエネルギーをつかってしまうことになる。総タイトルを「福沢諭吉の事件簿」としたが、各巻400枚、最終巻にとりかかるところだ。しかしもういちど1、2巻を推敲しながら再読し、3巻に臨まなければならない。これは時間を食うが、思ったより楽しい作業である。新しい作業のウオーミングアップにもなる。
 もう10年ほども前になるか、評論タイプの諭吉論を書こうとしたが、屋上屋を重ねるだけで、なにか曲がないという思いが強くして、ミステリー風に仕立てたが、これが実は大変だった。それに最近福沢諭吉の「再評価」というか、再検証が盛んなのだ。新しい諭吉像というか、生きた時代に密着した悩ましい諭吉像を彫り上げてみたいな、と思うのだ。
 そういえば、「日本人の哲学」を始めたので、三宅雪嶺論も一時棚上げになっている。こちらは材料がそろっている、正攻法でいけるので、諭吉が終わったら再開しようと思う。
3 「日本人の哲学」が3冊5部まで進んだ。3冊目は今年中に出る。予定ではあと2冊5部が残っているが、もっとも書きたいと思ったところは書き上げた。ここで一服するのも手である。そう強く思える。
 たくさん書き散らしてきたが、主要な著書はデジタルで改訂稿を作る作業もだいたい終わっている。いまのところ1巻1200枚で15巻になる。これが紙ならとんでもない量になるが、デジタルである。USB1本ですむ。
 それでも、『現代思想』と『人生の哲学』は21世紀問題を内包させる最終改稿版を残しておきたい。それを残してどうなるというわけでもあるまい、という気もするが、自分の気がすむだけはたしかだ。こうやって人生の残りを消化してゆく、けりをつける、それがわたしの60代前半の望でもあった。中身の問題を度外視すれば、この目算はかなり上手くいっているのではあるまいか。
4 今月中に新版『まず「書いてみる」生活』(文芸文庫)が出る。ありがたいことだ。
 「書いてみる」といえば、「自費出版でも」という書き手のために、良質の出版社を紹介することをずーっと続けてきた。
 何より大切なのは、当の「原稿」を読むことである。
 できれば内容についてもアドバイスできるのではないか。
 内容がよければ「自費」がとれる場合もある。
 もし自分の作品を本にしたいという考えの人は、一報ください。可能なら、デジタル版で作品をお送りください。紙はかさばるし、モニターのほうが、わたしにとっては読みやすい。とりわけ「やりとり」が簡単だ。生の声も届く。
 出版社を紹介する。「自費」でない場合でも、紹介あるいは助言者はほとんど感謝されることはない。そう思ってやってきた。100冊近く紹介したが、10冊あったかどうか。これがわたしの経験則である。
 文句をいっているのではない。そういうものなのだということだ。人は自分の援助=オゴリはよく憶えているが、他人の援助は当然と思える生き物だということだ。ま、わたしもそんな生き物のひとりだが。