読書日々 1629 今野敏『一夜』の異常な幕開け 

◆240209 読書日々 1629 今野敏『一夜』の異常な幕開け
 1 新刊書はほとんど買わなくなった。読みたい本がなくなったわけではない。
 私も、新聞を「下段」(書籍広告)から読むのを習慣としてきた。その癖はいまも止っていない。でも「書店」は老人の足には、「遠い」すぎる。昨年まで、購入はアマゾン(通販)を利用してきた。「足」の弱い老人にとっては、とても便利だ。が、昨年来、購入時、不可避(?)的に、アマゾンコム(会員)に登録されてしまうのだ。厳密には、ミスリードではないだろう。私のド近眼と手と脳の不釣り合い=ミスのせいに違いないが、何か「詐欺」に誘導されるの感をいなめない。それで、そのつど「会員」抹消を届けてきたが、それが面倒というか、情けないというか、アマゾンで購入するのを止めようと決断(?)した理由だ。
 2 ところが、いまでも新刊書が出るたびに通読したくなる作品がある。今野敏『隠蔽捜査』はその一つだ。もちろん、主演者が異なるTV作品もそのつど、繰り返しも厭わず観てきた。みな面白い。ビデオもある。
 妻に購入依頼をした。さっそく手に入った。「隠蔽捜査10」は、『一夜』で、エリート警察(検察から品川署長、そして神奈川県警部長へと「降格」と「移動」を喰らった)官僚、主人公「竜崎伸也」の連作には珍しく、「ミステリ論」からはじまった。どういうことか?
 ミステリはその発足以来、「大衆小説」か、「純文学」かの論争がある。ところがほとんど小説を読んだことのない竜崎が、この論争に足を踏む入れる、という「出だし」になっているのだ。まだ100頁も進んでいないのだから、お楽しみというところだが、この主題を、小説でも、評論でも真っ正面から追った「最初」の作家に、鮎川哲也(1919-2002)がいる。もちろん「全作品」(?)を読んでの「結論」だ。
 その初期の大作『黒いトランク』は3度通読し、メモを取りつつ堪能したが、まだ「空白」はある。ま、わたしのミステリ「脳」の不出来さの故だろうが。それでも、いまでも、TVに再三再四登場してきた「刑事鬼貫八郎」シリーズ(全18回 大地康雄主演)が、現在も再放送されている。原作とはかなり違うが、文句なく面白い。「換骨奪胎」といえば言葉はいいが、エキスだけを取りだして映像化したもので、かえって、鮎川のミステリの真骨頂が露出しているように思える。
 などというと、いかにも私は鮎川通のように聞えるかもしれないが、この人まさにミステリ「怪人」なのだ。小さい部分(細部)も大筋(ストーリ)も稠密というか、異常なほどに「文学」なのだ。
 3 ミステリーは純文学か、大衆文学かという論争・対立を「無効」にしたのは、松本清張『点と線』(1958)の登場によってだ、と江戸川乱歩もいい、大方ではそう受け取られている。
 だが、①鮎川『黒いトランク』(1956)が先行していた。②それに「点と線」は、「点」はあるが、「線」(ロジック)は通っていない。「推理小説」ではないということだ。
 もちろん、今野の『一夜』が、純文学か、大衆文学か、という長い論争に決定打を放つとは、想像するだにありえない、と思える。それでも、文学「音痴」の竜崎にとって、この論争にどのような「解答」を出すのかに、わたしは無関心ではいられない。竜崎は、必ず彼なりの「解答」を出す型(タイプ)の人間だからだ。
 4 問題をミステリ作家今野敏自身(そういえば、最近ミステリ大賞を受賞した)は、「ミステリは大衆文学か、純文学か」にどう答えるのか、興味津々だ。
 私といえば、大衆文学か、純文学か、などという論争は、「不毛の極み」だと思っている。「文学と非文学」があるのみだ、というしかない。しかし、「文学」とは何か、にまず答えなければならない。その場合、「文学」作品を通してしか、解答を求める方法はない、というほかない。「源氏物語」が「文学」なら、「大菩薩峠」は大衆文学である、というように。