読書日々 雪が融ける、隆明はいない

◆240315 読書日々 1635 雪が融ける、隆明はいない
 3月13日は、83回目の誕生日で、前日が長女の誕生日であるということで、私の誕生日は、ときどき忘れてしまう。というか、この月は、むしろ忘れることの出来ない「雪」の記憶とともに、ある。
 1 1968年の3月だ。関西では、どんどん、と春になる。大阪では、造幣局の桜が咲き始める。この年、3月、1週間の「休暇」を貰って、久しぶりに帰省した。札幌は厚別に実家がある。前年末に修士論文は提出済みだったので、気分的には「ホッ」としていた。ただし、大学紛争まっただ中で、大学院生協議会の議長の席が、順送りで私に回ってきて、年明けから猛烈に忙しくなった。東大に機動隊が入り、大学「封鎖」解除の突破口となった。それにどう対処するか、が「問題の中心」になった。
 それでも、もとは祖父の寝間であった広い部屋で、寒さに縮こまりながらも、手足を伸ばしていると、気分が柔らかくなってゆく。父や母は、酒・米中心の雑貨商に張り付いていたから、家には手伝いのおばあさんがいるだけのがらーんとした殺風景な時間が、ゆっくりではあったが長くなる。そういえば誕生日も忘れてしまっていたのではないだろうか。まだ酒を、それも一人で飲む習慣はなかった。
 それに、高校も、そして大学も「厚別」を離れたこともあり、小中時代の友だちもいない。といっても、中学に入ってからは、わんぱく時代はとうに終わっていたが。
 ということで、一度訪れたことのある、野幌原生林に無断入植し、その後、信濃中学の地理の教師になっていた加藤先生のお宅に向かった。ま、私は教師には馴染まなかったが、加藤先生は、小中高で唯一の恩師とよぶことが出来る人だった。「バス停」新野幌から1km入ったところに家があった。娘2人は不在で、大酒飲みの先生と、なにはなくとも酒と肴ということになった。
 どういう具合だったか憶えにないが、先生が、「上の娘を貰え」というので、即答、「貰いましょう」ということになった。この娘が50年余連れ添っている妻だ。次の日、「私は品物ではない」という返事を戴いた。
 この加藤の家には、なんどか3月に窺うことがあったが、決まって雪になった。結婚した翌日も、ドカ雪で、飛行機が半日近く遅れ、新婚旅行はキャンセル。まだ3月、雪はどんどん融けているが、大雪になるかも、という記憶が残っている。
 2 ハルノ宵子(よいこ)『隆明だもの』(晶文社 29231215)を規子さんが購入してきてくれた。まだ開いていないが、楽しみだ。というか、ちょっと以上に恐い。
 学生時代、というか、わたしが最初に書いた本格「評論」が「幻想論の理論的支柱――吉本隆明批判」〔上田三郎〕 43枚(大阪大学唯物論研究会編集『唯物論』、第一集、1969・10・20)である。「堂々」たる「体裁」の論稿だ。冒頭
《革命運動において、十九世紀と二十世紀を区別する指標は何か。前者が、プロレタリアートの資本主義への革命的襲撃の準備期にあたり、後者が、プロレタリアートの資本主義への直接の襲撃の時代、即ちプロレタリア革命と社会主義建設の問題が直接的実践の問題となった時期であるという点で両者は区別されよう。従って、二十世紀における革命的行動の役割に関して、新たな質を持って緊急かつ重大な問題となったのは、歴史的発展の進行に対する党の働きかけの役割、プロレタリアの意識性と組織性というような意義に関することであった。
 戦後、マルクス主義にとって圧倒的に有利な条件の中で、戦前の唯物論(旧唯研派)を客観主義として拒否しつつ、これに代えるに初期マルクスを根幹とする主体的唯物論が展開された。主体性論者の主観的な意図がどのようなものであったにせよ、二十世紀における革命理論を十九世紀における「初期マルクス」で代換するかかる意図は、その論理的、実践的帰結として二十世紀の革命運動がそれなしには貫徹しえない、党派性、科学性、意識性、組織性を不可分に持つ革命理論への敵対物として結実した。「右」は民社理論(猪木正道)から、「左」はトロツキズム(黒田寛一)にいたるまで、かかる主体性論が今なを、否ますます幅広く人民の中へ浸透していった客観的条件は一体なんであったのか。」》
 この論述を否定・修正するために、1975年以降、私は、考え、書いてきた、といっていい。吉本論は、数冊におよぶ。