読書日々 279

◆150619 読書日々 729
宮本常一、民俗学=楽の旅
 この季節、札幌では、よさこいソーラン祭り(6/10~14)、さっぽろ祭り(北海道神宮例祭 6/14~16)とつづく。札幌のホテルは超満員で、ビジネスホテルの値もがーんと上がる。とても札幌に出て、気楽に飲んで回るというわけにはゆかない。したがって、仕事のほうは、おのずと進む。これがいつものことだ。
 『日本人の哲学4』の9「雑知の哲学」は、先に脱稿済みの10「大学の哲学」と同じ枚数になった。といっても、まだ敗戦後である。手間取っているが、さまよっているわけではない。「雑知の哲学」は『日本人の哲学1 哲学者列伝』と同様、「哲学」=愛知の「主脈」であり、豊かな緑野である。
 民俗学に、柳田国男、折口信夫の両巨頭がいる。しかし、宮本常一(1907~81)の仕事抜きに民俗学というか、民族誌を語ることはできない。常一は、周防の大島生まれである。大島は、あの長州征伐戦争で、戦場となったところだが、瀬戸内海航路の要衝を占め、しばしば戦争舞台になったところだ。
 民俗「学」は民俗のさまざまな資料(誌)の集積があって成り立つ。この収集を、渋沢敬三がはじめたアチック・ミューゼアム(Attic Museum 屋根裏博物館)、後の「日本常民文化研究所」はめざした。少し長めの、といっても数日のことにすぎないが、旅行に出るとき、常一の本を携えてゆくといい。とくに、「ちくま日本文学」022『宮本常一』(文庫版)は便利だ。常一の著作集(未来社)は全43巻で、通販でも10万円近くする。この人の単行本は、高止まりになっている。文庫本を含め、1円+送料などという本はない。人気が高いのだ。ちくま版には、著作集未収録のものも含まれている。
 宮本常一の本がなによりもいいのは、だれでも、読み書きが多少不自由でも、読めるということだろう。
<わたしたちのとおい祖先が、コメやムギをつくってたべることをおぼえるまえには、おもに海からとれるものをたべてくらしをたててきたのです。
 そしてそれからのち、コメやムギをたべるようになっても、やはり魚や貝をたべることをやめませんでした。いま貝塚がのこっているところでは、魚や貝をごはんとしてたべていたのですが、コメやムギをたべるようになると、魚や貝はおかずにしました。>(「船の家」)
 「です、ます」とはかぎらないが、こういう調子である。語り調で、柳田や折口では、こんな訳にはゆかない。「学問」を意識的に狭める必要がないが、「音楽」であって「音学」ではない。「民俗学」は「民俗楽」、楽しむ・愛する・知る=楽しまれる・愛される・知られる、ということがなければ、「木石」の類だろう。もっとも、数式のように、「木石」になってはじめて「学」(sciences)の資格をえるということも事実だ。「数式」を楽しみ、愛することができて、はじめて「愛知」になりうるということだ。
 宮本常一の本を読んでいると、個別の事例を語りながら、誰にでも・いつの時代でも・どこででも「通じる」、いってみれば人間とその世界の普遍に通じる感じがする。たんなる過去のケースだけではなく、この・いまのわたしが、胸底底深くしまいこまれていたモノに触れるような感じになる。
 『日本残酷物語』(全5部 平凡社 1959-60)がある。監修・執筆に宮本常一も名を連ねている貴重な仕事だ。1960年代まで、日本は「復興」したといわれていたが、とてつもなく貧乏だった。失業が餓死につながっていた時代だった。
 わたしが大阪に「留学」したのが1960年で、わたしの唯一の親戚とでもいうべき、家族経営の鋳物細工の仕事場に来ていた日雇いの職人(冬は焼き芋売り)は、家族8人が、6畳1間、戦災を免れた、流し・トイレ共同の部屋に住んでいた。異例かというと、そうでもなかった。そういう時代の日本の「貧困」「差別」「抑圧」等を洗い出し、「体制」のせいだと告発したドキュメントが『日本残酷物語』である。
 ところが常一の書いたものは、貧しい時代、極貧の生活を語っていながら、そこから必死に脱出しようとする細民の生活をたんたんと描いている。日本人多数の工夫=エネルギーをである。その細民の一人が、常一であり、係累である。高度成長期を過ぎて、日本のどこにも見いだしがたくなった、現在ではまったく絶えてしまった<かのように>見える民俗力にちがいない。