恩師を語る U7 60号

恩師を語る 『U 7』60号(七大学をつなぐ総合情報誌 2015/3)
 わたしは札幌市に接する僻村(白石村字厚別=現札幌市厚別区)に生まれました。恩師とよぶべきひとは三人います。信濃中学の地理の教師、加藤賢治(1920~68)先生、大阪大学文学部哲学科倫理学講座の相原信作(1904~96)先生、それに37歳の時に著書でであって私淑した関西大学文学部国文学科教授、谷沢永一(1929~2011)先生です。
 加藤先生は、陸軍糧秣敞の主計(少尉)を務め、敗戦時、部下とともに野幌原生林に無断入植した猛者と聞いていました。でも「開拓」などという荒行のにあわない都会子の「でもしか」教師で、はじめてお会いしたときはただのおしゃべり好きのノンベイで、「一升瓶」という渾名がありました。もともと「地図」好きだったわたしは、一二歳、先生の授業で「勉強」のおもしろさに気づきます。ただし授業は「漫談」というのか、それとも奥が深いというべきなのか、教科書を無視した、その土地土地の風土に根ざす人間の生々しい営みが語られたのです。先生は「知」のおもしろさとともに、わたしに「家族」を与えてくれました。妻と子どもたちです。ただし先生は「義父」となる前、六八年に四九歳で亡くなります。まだわたしが大学院生のときでした。
 大学で教養課程から専門部に進む前、六三年、ガイダンスを受けるため文学部の相原先生のドアをたたきました。国文から史学へ、そして哲学へと進路をようやく定めたときで、いまでも憶えているのは、「(研究者の)就職口はない。就職の世話はできない。それでもよいというのであれば。」という言葉です。それと独仏英、ラテンギリシア語は最低限必要です、とつけ加えられました。
 当時、文学部は新制大学とはいえ、哲学徒の研究は、サルトルなどという「はやりのモダン」はダメで、デカルト・カント・ヒュームというような古典(著作)に限るというものでした。相原先生は三年になったわたしを前に、開口一番、卒論でカントの三批判書以外を論究テキストにすると、受け取りません。カントの『純粋理性批判』を三回読むと、おのずと書くべきテーマが生まれる、といわれました。
 ドイツ語は全部すれすれで単位を取り、フランス語は履修せず、ギリシア・ラテン語は試験を通ったものの、未消化だったわたしの、難行苦行〔レイバー〕がはじまります。カントはドイツ人だって気持がめいるような難解さです。天野貞祐訳がさらにややっこしい。それでも一年で、ようやく一回と半分、ノートを取りながら読みましたが、五里霧中で、反則とは知りつつ、新刊の岩崎武雄『カント「純粋理性批判」の研究』(1965)を手引きにして、ようやく卒論を書き終え、大学院に進むことができました。
 相原先生の演習は、学部で羅仏対訳のスピノザ『エチカ』、大学院でヒューム『自然宗教に関する対話』の講読でしたが、先生と生徒との実力差があまりにも大きいので、ほとんど頭の上を先生の達意の訳や注釈が流れてゆくだけでした。そのうえ、先生は無駄口をたたきません。「それで?」と質問され、ようやく答えると、「それから?」とお聞きになり、いつも尻切れトンボのまま時間が終わるというものです。
 先生を称して「スフインクスのようだ」という人がいました。大学院に入ると、個人指導のような授業になりました。ほとんどが二人だけです。雑談などありません。ますます会話が途切れます。わたしのほうは、先生をどうにかしてコンプリヘンジョン〔のみこむ〕したい。おのずと先生のエピソードを探すことになります。
 志賀直哉の直弟子と結婚し、その顛末を小説に書かれています。中学のとき、電車の中でカントの『プロレゴメナ』を読破します。(英独仏だけでなく、希羅、露支西伊等を読みこなす、語学の天才です。)そのことを師の西田幾多郎に知られ、「読んだ」と「理解した」は違うなどとたしなめられたそうです。一度新築された下鴨神社の家にお伺いしたことがありました。再婚された奥さんは「宅は気違いだ」と断言しました。などなど、逸話はたくさん残っていますが、一学生にとっては「霧中」の人でした。
 先生から何かをしっかりと学び取ったという実感のないまま、六八年、先生は退官されます。その後、先生とも倫理学教室ともしだいに疎遠になり、就職の当てもないままアルバイト暮らしをしているときでした。大阪市大の栗原祐先生に「旧友」の相原先生に会いたいと請われ、段取りをしました。当日、「今日はご苦労様でした。」と、先生からはじめて優しい言葉をかけられました。
 わたしは大学院に入って、コミュニストになります。大学紛争時には、大阪大学大学院全学連絡協議会の議長(当番制)になっていました。小さく「緩い」組織です。しかし全学を結ぶ自治会が崩壊していたため、ここが全学闘争の「中枢」的役割を負わせられます。運動に忙殺されるのは仕方ないとしても、研究職の口まで閉ざされ、妻のおなかには三人目の子が収まっています。郷里への撤退が頭をかすめました。でも最後に何かを残したい。そういう念いで『ヘーゲル「法哲学」研究序論』(1975)を書き上げました。幸運なことに友人が小さな短大の常勤に引っ張ってくれ、七五年三三歳、定職をえます。多少は落ち着いて研究できる「場」をえます。同時に二〇代の半ばで選んだコミュニズムを理論的に再検討する「時間」をえました。
 七七年、上京の折、夜行で読む本をと、一冊の本を買いました。地味な本でしたが、手にしたのは「開高健」論が載っていたからです。谷沢永一『読書人の立場』(1977)でした。雷に打たれます。このとき、谷沢本が『書名のある紙礫』(1974)以降、ようやく世評をえて、するすると手元にたぐり寄せられはじめました。わたしは谷沢本のなかに、わたしのなかにある「雑知」好きの虫を発見するとともに、「哲学」(純知)とマルクス主義にとってもっとも手強い敵手を見いだします。「打倒」谷沢を果たさなければ、容コミュニズムを貫くことはできない。こう思えたのです。このときから今日に至るまで、谷沢本はわたしの「師」となります。
 三〇代の半ばから四〇代を使って、マルクス理論の最大可能性を追求しました。結果が『イデオロギーの再認』(1985)です。でも、マルクス理論は根本で間違っている、その実行は「最悪」の結果を生む、という結論に達しました。
 この過程でもういちど相原先生に「出会い」ます。マルクスは卒論の準備段階で、スピノザ『神学・政治論』やヒューム『人間本性論』、ライプニツ『モナド論』等を「研究」しています。相原先生や倫理学教室で教わったテキストです。それに相原先生には若きマルクスを論究した問題作「マルクス主義の一考察」(1968)がありました。わたしは『哲学史の可能性 一つの若きマルクス論』(1980)を、相原先生へ再提出する「卒業論文」でもあるという思いで書きました。
 谷沢先生に直接お会いしたのは、開高健の一周忌の会(1990)ででした。それから何度か一緒に仕事をさせてもらい、のちには、「鷲田君が『師』というのだから」というので、先生の「弟子」と認めてくれました。東日本大震災の直前に亡くなられましたが、膨大な著作を残した谷沢先生の背中は、追えば追うほど、「逃げ水」のように遠ざかっていきます。