読書日々 497

◆160311 読書日々 497
崩壊した社会主義体制のことが出てこない、社会主義政策提唱の研究本
 春は着実に近づいている。昼、雪が溶けて、夜、固まる。その繰り返しだ。
1 とんでも本を読んでいる。書評のためだが、アンソニー・アトキンソン『21世紀の不平等』(東洋経済新報社 15.12.24)で400頁の本だ。『21世紀の資本』を書いたピケティの師だそうで、そのピケティが「序」(書評)を書いている。
 まじめな研究者のまともな本なのに、「とんでも本」とは何ということか、というかも知れない。
 第二次大戦後、OECD諸国で、平等化が進んだのに、サッチャー、レーガン以降の90年代から、不平等化が急激に進んだ。こういう時代把握のもとに、平等化は社会的正義と義務だとして、国家資本主義、国が政治経済の主導権を握り、累進課税を復活させ、社会的貧困撲滅の政治経済に戻らなければならない、と主張するのだ。
 まだ250頁まで進んだところだが、わたしより二つ年下のこのイギリスの経済研究家は、1990年、社会主義レジュームが崩壊したことに、一行も触れていないのだ。したがって、彼の念頭には、コンピュータ技術が可能にしたグローバルな情報社会の展開、よりいっそうの競争が苛烈になった、一つの世界自由市場に向かう、消費中心主義社会への転換などは、たんなるトレンドとして片隅に追いやられる。
 人間は「平等」が好きだ。もっと好きなのが、「自由」であり、「自然」だ。今日の朝日新聞のインタビューで、養老孟司が喝破しているように、「自然」はニュートラルだ。人間の想定外の存在で、「狂気」を伴う。これは極端にいえばのことで、人間も自然であることに変わりはない。自然に「適者生存」(=優勝劣敗)はない、と今西錦司はいったが、自然に優劣はある。競争は厳然として存在する。ただし、勝者を「優勝」とするので、勝者が強者なわけではない。弱者は連合し、強者になる。民主主義だ。蜂の民主主義だ。
 ただし人間の民主主義は、一人「一票」に還元される。全員同等(基本的人権という仮定の下で)だ。民主主義がどんなに奇妙奇天烈でも、人間が「一票」にすぎないものと算定されるから、成立するのである。これこそ人間の「知恵」だ。「博愛」からではない。わたしがどんないい意見と思えるものを提供しても、その成否が投票に付されたら、わたしは半ば以上「諦める」。民主主義(多数)は、ある程度暴走してはじめて、白黒を付けるからだ。「正義」とは「多数」である。
 かつて自衛隊は違憲かどうか、の判断を裁判所に提訴したひとたちがいた。「憲法」を裁定基準とするかぎり、明白なる「違憲」である。しかし、今日、だれも、自衛隊が憲法違反だとして、その廃止を訴えない。半ば狂気の人は、安保関連法を、違憲だとして、廃止を訴えている。
 アトキンソンは、まともな研究者なら、(国有化や公営化を旗印に)社会均等化を推し進めた労働党政権への復帰を、否、国家社会主義の再建をアッピールすべきだ。
 だが競争が全面化した時代だ。否、いずれの時代であるかにかかわらず、「競争」を強化しながら、その結果生じる諸種の「格差」を緩和する、これが人間に固有な「自然」(本性)である。そういう政策が、この本には一行もない。面妖だ。
 2 丸谷才一編『探偵たちよ スパイたちよ』(集英社 1981)を寝転がりながら再読した。ロアルド・ダール「007の東洋の素敵な彼女たち」で、ボンド映画の脚本を依頼されたダールが、三番目に登場する美女「胴長でボタンの花のような」浜美枝(いまも時々TVや雑誌で時々見かける)と書いている。浜美枝も若林映子も胴長だからはえたのだ。このアンソロジーには、リンカーンの「探偵小説」も出てくる。もちろん、駄作だが、これが優秀作だったら、この大統領、奴隷解放の父だけでなく、探偵小説の父といわれたかもしれない。