読書日々 981

◆200410 読書日々 981 音羽の講談社
 四月は暦の上では春だが、季語では冬隣というにふさわしい。それでも5週間余り外に出ていない。いつものこととはいえ、インフルエンザのことも心理的に作用しているのかも。まずは足下が不如意になり、視界が狭くなる。自然、ふらふらする。78歳なのだから、歳に不足のない不如意ということだ。そろそろ冬眠を終えなくては。
 1 音羽にある講談社、これはわたしが訪れた最初の出版社ではないだろうか。出版に関してではなく、『週刊現代』の記者だった旧知の男に呼び出されることしばしばだったからた。そのときからかなり後になるが、私事で「フォーシーズン」(ホテル)に二度ほど泊まったことがある。山県有朋の旧別邸跡に建つこのホテルは、意外と安かった。
 二度とも、桜の季節で、朝早く目ざめると、音羽周辺からはじめて、わたしにはめずらしく長い散歩コースをたどった。「上」は目白に抜ける幹線道路、「下」は早稲田までの神田川添いであった。二度とも桜満開のころではなかったろうか?
 講談社といえば野間清治である。野間といえば雑誌王(『キング』)とよばれたが、北辰一刀流の森要蔵の弟子、妻は要蔵の長女(左衛)であった。野間はケガで剣士になることを断念したが、剣道を主体にした文武両道の社是を掲げた教育者でもあった。
 その甥に、「昭和の武蔵」と謳われた森寅雄(野間から森に改姓)がいる。野間は息子恒(ひさし)を英才教育で育てた。あえて上級学校には進ませず、「社」(経営)と「道場」(剣道)を修業の場とした、帝王学で鍛えた。
 『剣豪という生き方』(東京書籍 2010)という美しい本がある。最近求めたもので、文・画が本山賢司で、『歴史街道』PHP 2001~2010)に連載中、熱心に読んだ(切り抜が取ってあったと思う)。すべて凄まじい。
 この本は、現代から江戸期を経て戦国期に遡る剣豪たち(101人)の生き方をたどったものだ。その冒頭に「森寅雄」が登場する。(ちなみに、二人目が岡部秀雄(女性)、長刀術で、生涯一敗、米寿で並みいる強豪(男)をなぎ倒した。)
 清治をはさんだ、寅雄と恒の関係は、同じ血脈を受け継ぐものとして「微妙」だが、亘は再起不能の病に冒され、清治の急死(心筋症)の直後、社長を継いだばかりの30歳(?)の若さでなくなった。昭和13年(1938)のことだ。大村彦次郎『時代小説盛衰史』(筑摩書房 2005)にある。ただし寅雄も1969年、54歳で急逝した。
 2 冬は巣ごもりというか、外に出歩かない。大学で教えていた時期、長い休暇(?)があった習慣のせいでもある。今期、何もすることがないと思えたときは、せっせと旧稿の再建(?)に励んだ。かなりの数になるのではないだろうか。
 何度も書いてきたが、その第一は「読書日々」である。この20年間の行程の一端をよくよく顧みることができた、と思える。思えるというのは、あまりまとめて大量に読んだため、すぐに忘れてしまったようでもある。ま、それはそれで仕方がない。
 第二は、『哲学を知るとなにが変わるか』『欲望のエチカ』『反哲学・入門編』を三部作として一冊にまとめる作業だ。『哲学入門』のテキストになるが、もう遅いか?! でもまあ、自慰にすぎないが、カントもヘーゲルも、講義録(の再建)が充実していた。
 自分の書いたものを熱心に再読する。これは十分に嫌みというか、気持ちの悪いナルシストであると思われても仕方がないだろう。でもまあ、わたしが繙読してきた物書きたちは、そうじて自分の書いたものに対する愛好感と嫌悪感の二重感情にとらわれているというより、愛好感のほうが数段勝っていなければ書き続けることはできなかっただろう、と思われる。もちろん、わたし(鷲田)は例外であるなどとはいえない。
 それあるか、人は批判めいたことをいわれると、全人格が否定されたかのように反発する。わたしは辛辣だとよくいわれるが、「死命を制する」ようなあたりは避けているつもりである。10段階の9とか10を印に韜晦しているつもりだ。