読書日々 830

◆170519 読書日々 830
長沼から厚別は遠かった
 車の免許を返納した。それで、14日、自宅(長沼)から公的機関で移動してみた。町営バス(午前2本・午後1本 自宅前)10:25(長沼中央)11:09→(空いた時間、髮カット)11:57JRバス北広島12:27→JR12:35新さっぽろ12:45→徒歩→自宅(厚別)13:00 風の強い寒い日だった。厚別の信濃小学・神社を抜けるとき、孫たち(4人)が公園で遊んでいるのにであった。神社は恒例(?)の春祭りで、出店で賑わっていた。腹が空いていたのでたこ焼きを買ったが、500円、これがとてものことまずかった。ビールで流し込んだが、さらに具合が悪くなった。
 1 11~18日、あっというまに時間がたって、4人は慌ただしく東京に発っていった。
 2 理念と経営の書評(5.5枚)をはやめに仕上げ、送付。
 3 鮎川哲也のミステリ短編集を読み進む(4冊目)が、この本格倒叙ものは、熱度というか、ミステリがもっている「焦燥」と「孤独」のセンスに欠けるところがあるのは、致し方ないか。
 長編『戌神はなにを見たか』を熟読した。①トリックの案出者は、女性の共作者(美濃白鳥在住)だったら、より完璧に近かった、と思えた。②現在は、名松線の終点・伊勢奥津から名張までのバスは、1本で、接続が悪い。③なんといっても、土地勘のある三重の伊勢、伊賀の各地や乗り物が出てくるのは、嬉しい。④美濃白鳥の奥の石徹白(いとしろ)は、鮎川信夫(荒地派の詩人で評論家)の父が石徹白出身(上村藤若)で、敗戦前後、信夫が一時療養生活を送ったところとして知られている。そうそう、信夫の母も、隣接する大野(藩)藩医の孫だ。そうそう、泉鏡花『高野聖』の舞台ではなかったか? 
 信夫は、ミステリの翻訳家としても知られ、ペンネームの「鮎川」はこの詩人から取ったりなんかして? 長良川鉄道、美濃太田から北濃まで、70km余り、片道で2時間かかる。長編『準急ながら』でもおなじみだが、この路線をたどってみたい。
 4 三木清の人生論や外山滋比古の思考術・老後法が、「朝日」によると評判になっているらしい。外山の著作は、「亜」エリート、エリート=難関校に入ったが、知力も実力も養わなかった人たちにとって、一種の「鎮静剤」である。三木清の人生論は、つねに最先端の課題に取り組み、中途で終わらざるをえなかった超エリートの「嘆き」が色濃い。この人、自尊心の塊で、その人生ノートも、通常人が読んで理解できるようなしろものではない。
 先刻、朝日は、戦時中、三木は友人をかくまったかどで、治安維持法に引っかかり、戦後、獄中死した、などと書いている。高倉テルは「友人」なんかじゃない。共産党員で、三木の寛容なのを見越して押しかけ、自分が捕まると、三木の名を出し、逮捕、下獄の因を造った、とんでもないヤツだ。そういえば、三木は、京大就職を断念し、上京、『新興科学の旗のもとに』を興して、マルクス哲学の創造的発展を目指した。だが、同じマルクス主義派の『唯物論研究会』と対立し、共産党に資金提供したという「理由」で逮捕され、獄中で、三木批判が展開された。三木は、いわば「同志」や「友人」に裏切られたのであり、三木を反マルクス派に追いやったのは、戸坂潤などのマルクス主義派に他ならなかった。
 5 大学院に入って、本格的にマルクス主義研究と運動に入ったとき、三木清のようになりたい、と不遜にも思った。独立マルキストだ。しかし、これは適わなかった。同時に、三木清のような生き方はしたくない、する必要なない、と思えた。自分の「能力」を買ってくれるところは、どこにでも出入りする、という態の生き方だ。もちろん、戦前と戦後の時代差がある。
 それでも、吉本隆明を真ん中において、三木清と廣松渉に親しんできた。わたしの思考歴が、師の谷沢永一や、司馬遼太郎その他と、多少異なるところである。この点を、『日本人の哲学』(全5巻)を費やして書くことが出来たのでは、と思っている。