読書日々 984

◆200501 読書日々 984 三宅雪嶺「再開」
 暖かくなった。日が長くなった。
 札幌もようやく桜の季節だ。長沼の旧宅の庭もやがて満開になるだろう。そうそう、ゴールデンウィークに入ったが、退職前と後とにかぎらず、例年わたしには「黄金」しゅうかんなどに関係なかった。定刻に起きて、ノルマを果たす。これがノーマルな日々である。
 1 ようやく、中断していた、というかなかば放棄に近い気分でいた、三宅雪嶺を書き継ぐことに、重い腰を上げることができた。昨年、『福沢諭吉の事件簿』(言視舎 3巻)を上梓できて、およそ1年だ。ずいぶんうろうろしたことになる。ま、そのかん参照に値する新刊の研究書(中野目徹『三宅雪嶺』吉川弘文館 191020)も出た。中途半端にしたままこの課業を投げ出すわけにはいかない。そう思える。
 このTVと机が置かれた部屋には、諭吉の関連書籍とともに、雪嶺関連書が本棚に並んでいる。ちょっと威圧的だ。諭吉本は全集をはじめとして、片付けなければならないものの、そのままにしている。
 年表作りと『同時代史』(岩波書店)解読を同時並行させることから、再発車しだしたばかりだ。まだ坂を上りはじめた蒸気機関車さながらで、汽車特有の惰性(routine)はまったくといっていいほどついてはいない。頭の筋肉をほぐすところから始めなければならない。急がない、高原鉄道なにみでの速度でだ。
 2 雪嶺は、明治22年、帝国憲法がなって、はじめて真の日本国と日本人が生れたと大書した。帝国憲法は、国権と私権(国民主権)の「逆立」関係を、プロイセン憲法とともにきちんと押さえた論理をもつ。つまり、国権(国家主権)確立なきところに私権(国民主権=基本的人権)はなく、私権(私的所有=私のもの=身体と財産の権利)の保証あってこその国権である。憲法とは、国家権力(power)をぐるぐる巻きに縛る法網で、国家と国民の逆立関係を雪嶺は陸羯南とともに看破した最初の人だ。中江兆民や福沢諭吉に理解し得なかった観点である。
 3 ところが、雪嶺は、「晩節」を汚す言動に向かっていった(ような)のだ。基本的人権を棚上げにするヒットラーやムッソリニーに、娘婿の中野正剛に引っ張られるような形で、ドライブしてゆくからだ。その「闇」をなかったことのように処理してはならない。戦時の戦意高揚のせいにはできない。その正体を照らし出す要がある。つまりは「政論」をこととする雪嶺である。政論は第二義・三議であった「純哲」畑の西田幾多郞や田辺元とは違う。これが厄介な仕事なのだ。
 3 伊藤博文は、日清戦争勝利後、政府を放り出して、「新党」作りに歩を進める。
 すなわち1900年、唯一の民選(=民主政治)機関である衆議院で多数を擁する政党内閣をめざして、憲政党(板垣の自由党+大隈の進歩党の合同)に対して、立憲政友会を結成した。まずは憲政党の議員(星亨、松田正久等)を基盤に、伊藤派(西園寺公望等)を結集し、「民間」の原敬を幹事長に据えるという大胆なものだ。
 これは「純粋」藩閥政治に対する「反逆」だが、欽定憲法への「反逆」ではない。なぜか。
 維新から30年、国会開設から10年、民選議会をひいては民意を抑圧ないしは無視したまま、政治の安定を図ることは、無理とみなしたからだ。事実、日清戦勝後、伊藤が内閣を放り出し、それをうけた最初の「政党」隈板内閣がなすすべなく瓦解した。再登場した山県超然内閣がたちまち立ち往生、内閣を放擲。かくして、「民意」を背景にして政権を安定的に保ち、政治全体を円滑に運営することを目して、憲政党の議員(星亨、松田正久等)を基盤に伊藤派(西園寺公望等)を結集した、「民間」の原敬を幹事長に据える立憲政友会内閣がはやくも発足したのだった。
 ただしここで特記したいのは、伊藤・星(1850~1901)・原というトリオが、暗殺で倒れたことだ。まず星が1901年伊庭想太郞(剣客)に東京市会で刺殺、そして05年伊藤がハルビン駅で安重根に射殺、21年原が東京駅で中岡艮一に刺殺された。あわせて、雪嶺が、井伊直弼の暗殺を原敬の暗殺に例えて、『同時代史』を書きはじめたことを記憶しておきたい。