読書日々 985

◆200508 読書日々 985 坊っちゃんと赤シャツは漱石の自画像
 今年というか、冬期に入ってはじめて「散歩」に出た。これは春になるといつものことだが、やはりしんどい。「視線」が定まらず、足元もふらふらする。ま、80間近なのだから当然なのだが、それでも、まだ歩いていなかった、しかしかつては荒れ地であったと思える道、いまは舗道になってアパート群が並ぶ地域をふらふらと休まず歩いてきた。3000歩である。気持ちはいい。
 1 トイレ本、関川夏央『気車旅放浪記』(中公文庫 2016)にはそれほど期待していなかったが、ぞんぶんに面白い。とくに、清張、林芙美子、そして漱石の「汽車」旅が秀逸だ。漱石の弟子には内田百閒(『阿房列車』三笠書房 1952)のようなとんでもない汽車好きがいる。(阿房とはミノタウロスだ。)
 夏川は、その漱石の作品から「電車」や「汽車」にまつわる挿話を抜き出し、読み解いてゆく。イギリス留学「最後」の旅で、漱石はスコットランド北辺近くまで長旅をしている。(クリスティ『ポアロ』TVシリーズ、スーシエ主演の第一作は、「コックを探せ」The Adventure of the Clapham Cookで、料理人の失踪劇だが、ここでもスコットランドの北辺まで気車旅が登場する。もっとも漱石はクリスティより一回り以上年上だ。漱石もポアロも、ビクトリア時代の雰囲気をよく知っている。)
 とくに面白いと思えたのは『坊っちゃん』で、松山に赴任してすぐ、無鉄砲な坊っちゃんが帝大出の赤シャツ(校長より高給取り)の奸計にはまって、都落ちならぬ、都へ落ち(山嵐は仙台)する顛末を語り、坊っちゃんは漱石の自画像であるとともに、赤シャツも漱石の自画像であるとしているところだ。
 漱石が「教師」に対するアンビバレンツな態度をとり続けていたことを考えると、関川の指摘は至極当然のように思えるが、これまで余り聞かなかった。関川原作・谷口ジロー作画『「坊っちゃん」の時代』(全5巻)を買い込んで読みたくなった。(でも、ケチなことをいうようだが、高いのね。)
 2 そうそう、やはりもういちど記しておきたいが、『福沢諭吉の事件簿』(全3巻)を書いた一つの契機は、古山寛・ほんまりう『漱石事件簿』(新潮コミック 1989)を古本屋で偶然見つけたからだった。漱石を通じて「時代を読む」体の要約の効いた作品だった。後に、助手の井上さんが、同共著『宵待草事件簿』 (新潮コミック 1995)を贈ってくれたが、残念ながらこの作品は、作者の思念が入りすぎてか、スッと物語が展開しなかった(ように記憶している)。
 3 なにか、雪嶺をようやく再開して、かろうじて間に合った、というほっとした気持ちになっている。コロナウィルス蔓延のおかげといってもいい。やはり、発表如何にかかわらず、書いていなければ、そのために読んでいなければ、マイ・ウェイが弛緩する。
 「人生」というのはどんなに努力しようと、常に中途半端である。この思いは変わらないが、半端だからこそ、「終止符」を打ちたい。そう思える。漱石はたった49年の生涯だったが、自分で何度も「終止符」を打っている。極論すれば、書き終わった都度だ。
 雪嶺の『同時代史』を読んでいて気がつくのは、雪嶺もまた時代の「風潮」のなかで過去を追っていることだ。日清・日露戦争期を描く第3巻は、昭和7年から11年のあいだに連載されたものだ。この時代のバイアスがかかっている。ただしすでに戦間期に突入した(15年戦争)とか、全体主義が蔓延したとかいう風潮とは、異なる。
 日露の軍事対決が不可避である=その準備をしなければならない、と、日米の対決が不可避でその準備をしなければならない、とのあいだには同一性があるが、連続的必然性はない。この意味を明らかにしなければならないということだ。司馬遼太郎が描いたシナリオは、「連続的必然性」だったが、どんな「危機」も、「必然」であると同時に、「連鎖」を断ち切ることは可能である。
 「想定外」を否定する論者がまかり通っている昨今だ。人間の世界には、否、個人の人生にも、「想定外」ばかりじゃないか。もっとも心外なのは、数十メートルのコンクリート塀で囲まれた海浜に想定外の「事件」(危機)は生じないのか、と問いただせばいい。