読書日々 866

◆180126 読書日々 866
西部邁さんの死。合掌ははやすぎる
 1 西部邁さんが亡くなった。自死だそうだ。これも「殺人」の一つだが、「自由」への道でもある。批判はできるが、否定はできない。
 小学校と高校で三年上、長姉とは同期だった。地縁がある。その上三〇年余住んできた長沼は、邁さんの父深諦さんの郷里だ。この村からは、戦前最後の(世界)共産党(日本支部)中央委員長、野呂栄太郎が出ている。邁さんは、6人兄弟の次男で、後ろに女4人が続いた。みな秀才であった。
 村(白石村字厚別)で東大に進んだ最初の人で、姉と同級ということもあり、心ならずも影響を受けた。東大に入ってすぐに学生運動に身を投じ、休暇で戻ると、何度かオルグのようなことのためか(?)、わたしを引っ張り出そうとした。修学旅行のとき、呼び出され、短躯蒼白を汚れに汚れたレインコートで包んで、汁粉を馳走になったが、「明日ゼネストが起きる」「日本が変わる」と特有のきんきら声で語った。じつに暗かった。
 そのご、「国会突入!」の先頭に立つなどの姿をTVで何度か見かけたが、逮捕され裁判になったという話を聞いたのみで、わたしは関西に「留学」した。
 1971年6月『季刊現代経済』が創刊された。創刊人は、マルクス主義経済学を廃した、最も清新にして現実的かつ革新的な経済学のグループで、その一人に邁さんの名があった。肩書きは横浜国大助教授ではなかったろうか。この雑誌掲載論文を中心に編まれた、学者としては最初で最後の学術書『ソシオ・エコノミックス』(1975)が出された。まだマルクス主義の尻尾が抜けきっていない、と思えたが、経済学を「(純粋)理論」の枠にとどめることを肯んじえない、強い意志を感じた。そのご、邁さんの著作は、気づくままに買って読んだが、つねに「わたしとは違うな」、と感じざるを得なかった。わたしがマルクス学徒になったことと無関係ではないが、(知性=)「エリート意識」と(行動=)「はみ出しもの感覚」が同在する、やっかいな人性(human nature)の持ち主と思えた。
 何度か、偶然と依頼でお会いすることはあったが、最「極論」を張る論法(例えば核兵器開発と自主防衛)と、問題を自分なりの手法で解決しようとする「誠実さ」(自前の雑誌で自説や他説を広く紹介しようという姿勢)には、同調できないが、頭をたれるしかなかった。
 2 作家(物書き)は書いたもののなかに人生とその評価がある。その意味でいうと、処女作のほかに、『ケインズ』(1983)、『大衆への反逆』(1983)、『福澤諭吉』(1999年)、『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。 』(2010)が、西部邁の学者・思想家としての面目が最もよく現れている、と思える。ただし「真正保守」をかざしながら、「保守」の神髄である「歴史」感覚(細部意識)に乏しいと、思わざるをえない。自分を哲学者だと見なしているようだが、哲学史のわきまえがあまりにも大雑把すぎる。(などとわたしがいうと、自分の顔につばを吐くようなものだが。)ただし、自分の「独創」を正面に出す吉本隆明と違うところが、むしろわたしには好ましい。ケインズ、オルテガ、福沢等の「読み替え」を基本技とするからだ。
 3 総じて、よくよく影響を受けた人、師とか先達が亡くなると、失った大きさに驚くとともに、「ほっと」する。重しがとれた感だ。森信成、広松渉、吉本隆明、谷沢永一、どの人にも例外はなかった。だが西部邁氏には、「ほっと」がない。まだ、合掌、とはいきかねる思いがある。年をとったせいかな。
 4 『北海道のイノベーション』を井上美香と共著で書いている。パートを分けて、勝手に書く、という手法だ。わたしのほうは、楽しんで、だが引っ越し等で、資料がまったく手元にない分、かなり独善を構えて、書いている。ほぼ予定の半分を書いた。これまでなら、あとは脱兎のごとくだが、昨今、そうは問屋が卸さない。わたしの持ち分は、「人」「事業」「地誌」だ。ことはイノベーションでありイノベーターだ。破壊・創造、リストラ、放棄である。面白いことこの上ない。