読書日々 899

◆180914 読書日々 899
「独断」のすすめ
 1 昨日、書斎=元事務所(2F)から、2013年以降の掲載誌を運んだ。段ボール2個分、1個は大して重くないが、やはり階段の下りは腰がふらつく。新聞の連載をやめてから、というか『日本人の哲学』に集中しだしてからは、「時局」を丁寧に観察(observe)し、書くことをやめてきた。この「日記」で時たま触れるに過ぎない。32歳でものを書き始めてからおよそ45年、変わらず時局に関心を持ち、怠らず長短併せて書いてきたつもりだ。
 時局である。大小にかかわらず、判断に誤りがあった。マルクス主義の言説を理論的に「清算」することができないあいだは、難しい判断を強いられて(否、自分で強いて)きた。観察、修正、判断というごく簡単なくりかえして凌いできた、といってもいい。その傷跡(証拠)が、自著作にくっきりと残っている。「時局」コラムにはより単純に現れている。
 「独断」(dogma)というと、通常は、主観的で独善的な判断ということになる。だが、元来は「定説」を意味した。懐疑=批判精神で対象を考察し、断定する態度をさす。懐疑主義で、結論を提示しない態度とは異なる。「時局」判断は、この「断定」する態度が求められる。もちろん、「世界」は「断定」できないことで満ちている。しかしだからこそ、ひとつの態度、「断定」が必要になる。「哲学」の効用とは、「断定」することにある。ルイ・アルチュセール(仏のマルキスト)が『レーニンの哲学』で強調した論点だ。そういえば、今年自死した西部さんも、同じような態度でマスコミ出演に臨んでいた。「独断」で臨むと、我が身も切らずにはおられない。(ちなみにアルチュセールは妻殺しをしている。)
 「独断」は一面的だ。その独断をあえてすることのできない「時局」論は、読むに値しない、とわたしは思ってきた。
 2 最近たいした読書をしていない。というか、本を読んでもすぐ忘れてしまう。活字が頭の中に滞留する期間がどんどん縮まっている。つい最近までは、どんどん忘れようとしてきた。
 あるとき(故)谷沢先生と話していて、先生の「ウツ」は、記憶魔とでもいうほどの「忘れることができない」病からくるのではないでしょうか? と尋ねたところ、肯定とも否定とも取られない笑いで応じられた。
 人は忘れるために著作する。論文や本という「外部装置」で残す。たしかに記憶魔とでもいうべき、渡部昇一、長谷川慶太郎、谷沢永一の三先生は、じつに記憶力抜群ではあったが、自分が書いたものは存外覚えていないことがあった。三人とも「独断」と思えるほどの「定見」を持ち、それを押し出すことを少しも厭わなかった。長谷川さんなどは、「朝令暮改」を旨とする、と書きまでした。この意味では大いなる「独断」論者であった。見習ってきた。
 3 当分BSTVを見ることができない。外装修理で、アンテナが作動しないのだ。それでNETFLIXを覗いている。見たわ見たわ、「美味しんぼ」全編、「深夜食堂」2シリーズまで。簡単に書くが、「美味しんぼ」はおよそ100話まである。「深夜食堂」はまだ続く。どちらも「食」を絡めた人情話で、老人を泣かせる。
 TV子である。定職がなく、金もなかった時代、ポータブルTVを買い、時を決めてみた。Sonyのカセット付きTVは、たしか半年分の生活費ほどの値がした。ケチなわたしの唯一の「娯楽」(楽しみ)だった。新婚当時、大学(待兼山)の下のアパートに住んだ。大学は封鎖中で、だから大学に連日詰めて活動していた。それでも、「巨人の星」と「あしたのジョー」があるときは、山を下り(食事を口実に)TVを観戦して、妻をあきれさせたおぼえがある。
 4 メガネ(眼)、TV、車(足)は高齢者の必需品だ、長生きの必須アイテムだ、とはわたしの持論だ。これにパソコンが加わると鬼に金棒といいたい。わたしはこのうち、車を失った。行動の自由が大幅に狭まった。ま、それは仕方がない。眼も、めがねで矯正しても、かなり苦しくなった。それでも、本、TV、パソコンを読む=見るのには苦労するほどではない。ただし、「頭」が悪くなった。どんどん性能が落ちてきている。ま、対策はしていないが、さみしくないといったらウソになる。