読書日々 912

◆181214 読書日々 912
ウラジーミル・ナボコフ「文学講義」
 寒い日が続く。
 1 講演準備で使った西部邁の著書を、2回書庫に運んだとき、宮本常一の本を下ろした。その際、ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』(野島秀勝新訳 TBSブリタニカ 1992)を偶然見つけた。旧訳のほうは古本屋が持って行ったので、ナボコフの評論はもう手許にない、と観念していたが、何かうれしいね。
 ナボコフは『ロリータ』で有名だが、ロシア革命等でアメリカにわたり、コーネル大で文学を講じ、のちにハーバードでも客員で教えた。その文学評論は、小説とは違って、「文学講義」である。
 ナボコフはドストえるスキー『罪と罰』を分析し、その文学破綻を解析した文学読みの達人で、その「講義」こそは再読したいですね。ただし「講義」ですから、ほとんどの人にとっては、退屈でしょうね。そうそう大学の「講義」は退屈だと難じる学生が多い。「講義」は面白くはないのだ。これは小学から変わらない。面白くなるためには、講師の知的成熟ばかりでなく、聴講者の知的成熟も要求される。おそらく、コーネルやハーバーとの学生にとって、ノートを棒読みするナボコフの講義にほとんど耳を傾けてていることはできなかったのではないだろうか? だからこそこのような「講義」本が残ったともいえる。ま、読者層も厚くはないでしょうが。
 2 12/10、BSで再放送『砂の器』(2回分)をみる。映画化され、何度もTVでドラマ化されてきた。
 松本清張の原作では、二人の主人公、ベテラン刑事(本庁)と犯人(新進作曲家)がいる。その二人に所轄の若い刑事と新進の評論家が絡む。犯行の深層には、知られたくない二つの事実がある。かつては業病とみなされてきたハンセン氏病と戸籍偽造である。犯人をたどるキイワードが「亀田」という東北訛りの言葉(人名、地名?)だ。
 1974年公開の映画は、公開時、ひさしぶりに映画館で見た。野村芳太郎監督のメガホンで、村を追い出された父と子が遍路する秋冬春夏の景観、おそらく(?)親知らずの浜、鳥取砂丘、桜並木の間道等々、息をのむような美しさだった。主演は新進ピアニスト加賀英領の加藤剛は憶えていたが、そのほかは亀高の巡査(三木)の緒形拳と、父親加藤嘉くらいしか憶えていない。
 この映画はヒットした。ただし、東北弁の「亀田」でわたしにすぐピンときたのは、(もちろん映画を見てからのことだが)函館の「亀田」のことだ。函館はいまでも浜言葉、その中心は東北訛りが色濃く残っている。
 TVでは5回放映されている。そのうち、最初のを除いて、4本見ている。印象に残ったのは、やはり仲代達矢と和賀英領の田村正和のものだ。そうそう、この会、脚本を書いた隆巴(宮崎恭子)が事務員役で登場していた。仲代の夫人だった。
 今回の作品は、超大作(長尺)なのに、手抜きが多く、刑事役の玉木宏も、和賀役の佐々木蔵之介も、目玉ばかり剥いていたし、ベテラン刑事の小林薫も脇に回って、妙にちぐはぐだった。
 2 12/14日、上京する。それで13日の昼間、これを書いている。
 妹夫婦(横浜)に、17日高校同期の同級、弁護士の岡部君に久しぶりに会える。ほかに、15日、巡礼友の会の残党と忘年会(?)をやる。何か気がせくようでまずいが、娘夫婦(下丸子)にも会いたい。
 3 三宅雪嶺『同時代史』第三巻(岩波書店)、日清戦争の章を読んだ。この本、註の部分をカッコでくくり、2行で表示する(挿注)、したがって註の部分は重要だが、活字が本文の4分の1になので、メガネハルキをかけないと読めない。厄介だ。
 雪嶺はたんたんと書いているようだが、にくい。日清戦争の趨勢は決まったが、清朝は、敗戦を認めず、講和批准を延々と伸ばす。延すたびに、日本軍は清の領土を侵攻し、賠償額は跳ね上がる。ついに最終段階、李鴻章は暴漢に襲われ、襲撃を受ける。そこの駆け引き、面白い。司馬の小説を読むがごとしだ。