読書日々 911

◆181206 読書日々 911
「福沢は俗物だ」のブーメラン効果
 1 旬刊『出版ニュース』(1946.11.上旬~)が来年3月下旬号で廃刊になる。この雑誌、わたしもずいぶん利用させてもらった。現在のようにグーグルやアマゾンもない時代、敗戦後のベストセラーや雑誌の動向を調べるのに、この雑誌がとても好便だった。
 そのうちわたしも物書きの一人に加えられたのか、「アンケート特集・今年の執筆予定」の執筆依頼の往復はがきが来るようになった。わたしの同世代では、今村仁司や高橋洋児をはじめ、この欄を賑わしていた人がかなりいて、新年合併号を開くのが楽しみだったが、いまは柄谷行人や川成洋(スペイン史研究)等少数になってしまった。2人とも英文出身で、法政で教鞭を執っていた。
 1988年には、12回、「ブックハンティング’88」欄を担当させてもらい、見開きのかなり長いスペースの書評を書いた。気になっていた書物や論者の本、松山巌、アイゼンク『精神分析に別れを告げよう』、村瀬学『「人間失格」の発見』、田中伸尚『ドキュメント昭和天皇』を評することができた。
 この時期からではなかったか、書くことに加速力がついたのは。稿料は安かったが、読んで、書いて、公表される、書評の醍醐味が分かるようになった。まことに小さなことではあったが。
 2 わたしは「今年の執筆予定」で、予定を書いてしまうと、つねに「予定完了」+αという仕儀になった。締め切りが決まった仕事はその期限内にやり遂げる、というのがわたしのマナーになったからだ。ただし谷沢先生の流儀に倣ったわけではない。
 1988年は、わたしの修士論文提出年であった。修士論文がよくないと博士課程に進めない。それが哲学科の不文律(?)といわれた。わたしの論文は、カントの「法哲学」(社会の哲学)の準則を明らかにしようとしたいとのもので、ヘーゲルとマルクスからカントの道徳哲学を論じようとしたものだ。これが以外とすらすら書けたため、大学の「大学院全学協議会」の議長(輪番制)を引き受けざるをえなくなった。連絡役でいいとのことで、体の空いているものが引き受けるべきだという「空気」に抵抗できなかったわけだ。
 しかし二重のパンチに見舞われた。かるく引き受けた「連絡係」が、大学改革闘争の激化で、過激分子の「封鎖」とすべての学生自治会の崩壊によって、唯一残った大学院の「自治組織」(連絡協議会)が大学と「公式」に協議・交渉する「場」(団交等)となり、学生運動の表舞台に立つ羽目になってしまったのだ。この後5年間、わたしが大学(学生)をやめる(自然消滅)まで、この「役」が改選なしに続くことになる。
 もう一つは、修論がひどく教授連に不評であったことだ。主任教授は89年に定年退官されたが、わたしの研究者としての場は、学生運動と修論によって、なかば閉じられることとなる。ま、自業自得ではあったが。早く出し過ぎた修士論文、これは、カントをマルクスやヘーゲルで歪めたものだという評価は、ヘーゲルやマルクスの社会哲学研究の方にわたしを導いたのだったが。
 3 何度か西部邁さんのことについてこの欄で書いた。講演さえした。それでかなりの量をまとめて読むことにもなった。それで分かったこともある。
 西部の大量に書いたもので、いまのわたしにもっとも納得できるのが『福沢諭吉』(文藝春秋 1999)である。副題「その武士道と愛国心」というフレーズに、偏見をもって臨まなければ、この評論は邁さんの代表作で、福沢諭吉研究の空白を埋めるものだ、ということができる。
 ところで思い出したが、西部が清水幾太郎著作集の編者になるという話(擬せられた?)があった。清水礼子が強く反対したそうだ。
 西部のもう一つの代表作が『ケインズ』(岩波書店 1983)で、この本には、ケンブリッジの「ブルームズベリ・サークル」のエリート主義が出てくる。ケインズもその一人とみなされたのに、なぜかくも大きな評価をケインズが維持しつつけているのか、という反問がある。
 そこで登場するのが清水で、たしか主著(いま手許にないので、うろ覚えで書くが)『倫理学ノート』でいっていた。合理主義とシニシズムの絶頂に立っていた19世紀末の空気にひたされた、精神的貴族の閉鎖的なこのサークルに、ケインズも属していた。そこにたまたま居合わせたD・H・ロレンス(アラビアのロレンス)は、ケインズをも含めて、彼らにたいするムカムカするような嫌悪感を隠せなかっ、と。
 この清水の表現を逆手にとって、西部は、ケインズは、精神的貴族のシニシズム(という俗物性)のなかにいたからこそ、その異端となってサークル内にとどまり、知的貴族(反シニシズム)であり続けようとしたのだ、と断じる。「内在的超越」(ヘーゲル)、否定の否定だ。