福沢諭吉の事件簿Ⅱ(言視舎)

福沢諭吉の事件簿Ⅱ

福沢諭吉の事件簿Ⅰからのつづき)
3 福沢の思想上の位置
 福沢諭吉である。もとよりわたしが書くのだ。「哲学者」諭吉をである。
 したがってこの小説には、家族愛に満ちた諭吉は寸毫も登場しない。また諭吉はすぐれた起業家である。その「弟子」たちも、日本の財閥マネジャーとして活躍したが、本書には少数が例外的に登場するにすぎない。
 わたしは近代日本の哲学者「三傑」を、福沢諭吉、三宅雪嶺、徳富蘇峰とする(『日本人の哲学 1』)。この場合、「哲学」とは、「大学哲学〔スコラ〕」(純哲)ではなく、孔子とプラトンがいう「愛知=知の総体」(雑知)のことだ。西田幾多郎ではなく三宅雪嶺の「知」である。
 諭吉は『西洋紀聞』でデビューし、『学問のすゝめで』で押しも押されもせぬ国民作家になり、「腐儒」を弾劾し、「門閥制度は親の敵」と断じる。だが諭吉は「儒学」の徒であり、「尊皇」家だ。幕吏に列してさえいる。
 諭吉の思想は、義塾の設立と経営のなかで鍛えられ、作家・教育者・ジャーナリストという大衆〔ポピュラー〕な場で活躍した。雪嶺、蘇峰に共通な、明治期哲学者の特徴でもある。
4 三宅・司馬・西部、すべてわたしのモノローグ=ダイアローク
 最終章(Ⅲ、17「富国と強兵」)で、三宅雪嶺、司馬遼太郎、西部邁の三氏に登場を願い、架空対談におよんだ。諭吉をよく知る三氏であり、わたしがよく知る三氏でもある。
 三宅は「国粋保存」を主張した。司馬は、福沢の徒のように見えるが、「脱亜論」の「瑕瑾」を言い立てた。西部は諭吉を儒学の徒、「実学」=「人間関係学」とみなす人として、欧化主義者・合理主義者とみなす俗論を徹底批判する。
 この対談(正しくは鼎談)は、いうまでもなく、すべてわたしのモノローグ(独白)である。そして忌憚なくいえば、自分のなかに他者を飼い養うほかないのが、思想をこととするものの作法である。この作品が、時代小説の体をなすにいたった理由でもある。
 肩の荷が下りた。まだ別な課題が残っているように感じるが、いまは考えまい。

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