読書日々 944

◆190726 読書日々 944
和田芳恵『筑摩書房の三十年』
夏めいてきた。というか、夏なのだろう。
1 山本夏彦『私の岩波物語』(文藝春秋 1994)を再読した。その中に「評判のいい社史『筑摩書房の三十年』」がある。
 「社史」とは(社員にさえ)読まれないもの、だから山本が編集兼発行人(社長)をつとめる月刊デザイン誌「室内」の「読まれる社史」を書こうとして、岩波ほかの社史を書くという手に出た。実にあっぱれなできばえとなった。
 では和田芳恵『筑摩書房の三十年』とは「評判のいい社史」だけではなく、「読まれる社史」なのか。著者の和田(1906~71)はわたしでもいくぶん知った名だ。北海道長万部出身、北海中学(旧制)を出ている。樋口一葉研究の第一人者で、『塵の中』で直木賞(1963年下半期)を受賞しているが、この小説は読んでいない。
 筑摩書房にはずいぶん世話になった。もちろん読者として。(といっても2冊、筑摩新書から出ているが。)とりわけ印象深いのは、漱石、中野重治、内藤湖南、柳田国男(集)、中村幸彦(著述集)、キルケゴール(全集未完)の全集等々で、どれもわたしの血肉になったと思える。ただしわたしがもっとも恩恵に浴したのは、『現代日本文学全集』であり、その解説だ。それもケチのため、すべて古本でそろえた。安くて栄養になった。ただし中学時代に「工作」で作った書棚が変形するほど重かった。
 和田『筑摩書房の三十年』は、一度頁を開くと、一気呵成に読み切ることができた。ひさしぶりの「快感」とよぶにふさわしい読後感である。もっとも和田の筆法に、派手さや、山本流の「どぎつい」表現など皆無である。むしろ淡淡としている。創業者の古田晁と臼井吉見が、個性丸出しの「豪傑」(風)なのだから、著者によろしきを得たというべきだろう。
 それにしても、1940年、『中野重治随筆抄』『文芸三昧』(宇野浩二)『フロウベルとモウパッサン』(中村光夫)の三冊を得て、金持ちの道楽然として創業した筑摩が、何度も倒産の危機を、その都度「ベストセラー」を生み出して回避するさまは、語り口が落ち着いている分、むしろ疾風怒濤の物語になり得ている。
 物語の主人公は、古田晁(社長)。この人、作品の好悪、選別に「一切」(?)口を出さない。つまりは編集者ではない。売れるかどうかを勘案しない(?)。商売人ではない。いついかなるばあいでも、出す本(作品)、著者ファーストで臨む。じゃあ太っ腹なのか。
 出版は「虚業」だ、机一つあれば創業可能。したがって銀行は金を貸さない。小切手を切って、高利貸しに頼らざるをえない。これが山本夏彦の言だ。創業資金は10万円(父からもらった)。利子で十分暮らせる額だ。それを湯水のように「制作」に注ぎ込む。あっというまに消えてゆく。自業自得に思える。
 まさに古田、毎日毎日小切手を落とす苦痛に耐えかねて、ついには酒浸りになる。
 田辺元『哲学入門』(1949)を出してベストセラーになったが、出費がかさんで赤字がむしろかさむ。しわ寄せは古田に、社員にゆく。ボーナスはおろか給料の遅配が何ヶ月もつづく。(だから、筑摩と同時期に創業した山本夏彦は、小切手を切らない。)
 古田、印税を一割五分にしていただけないだろうかと、おそるおそる伺いをたてる。そのときの田辺の言がよろしい。「そういう率の印税はもらったことがありません」
 だが古田、著者に、そして社員に恵まれる。何度も押し寄せる倒産・廃業の危機を間一髪で切り抜けることが出来る。(こういうところも「出版=虚業」といわれるところだろう。)そして『現代日本文学全集』(1953~59)だ。臼井吉見の企て。まさに昭和初年円本ブームを巻き起こした『現代日本文学全集』(改造社)の再来。(山本夏彦のいうように、『改造』は、平民主義の『中央公論』を圧するために社会主義を掲げ、岩波文庫に対抗して改造文庫を出した。)