読書日々 945

◆190802 読書日々 945
『新詳日本史 地図・資料・年表』
 一転して猛暑。今年は厳冬がなかった。春も初夏も穏やかだった。とつぜん、32度~の昼、28度~の熱帯夜がやってきた。すぐなれると思うが、暑いのは苦にならない。仕事もはかどる。でもやはり長沼よりかなり暑い。風が生温かい。
1 大学に入って最初に門をくぐったのは「歴史学研究会」だった。顧問は井上馨教授(教養部)で、最初の授業は、後漢書地理誌・東夷伝の「邪馬台国」の資料を素材に、授業された。追っかけるように井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史』(中央公論 1964)と直木孝次郎『日本の歴史2 古代国家の成立』(1965)がでて、大ベストセラーになり、歴史ブームになった。(このシリーズを企画編集したのが、宮脇淳三さん、後の鉄道・紀行もののベストセラー作家である)。
 井上さんは東大系の代表格(しかも桂太郎と井上馨の孫、華族の生まれだ)、したがって邪馬台国北九州説、直木さんは京大系の代表(大阪市大教授 洒脱で満百歳で今年亡くなった)の邪馬台国畿内説であった。井上先生は東大卒、大阪出身で、機内説だったが、その説は折衷(?)で、学閥の闘いはなかなか面白かった。
2 1960年代前半、歴史(小説)ブームは、司馬さんの『竜馬がゆく』(産経新聞)や『燃えよ剣』(週刊文春)が連載中で、いまだ可燃前であった。
 わたしは暇を見つけては、奈良の南、秋篠寺から薬師寺、ずーっと南まで歩いて、橘寺、飛鳥寺、石舞台、吉野(吉水)等々と、文字通り人気のないところをさまよい歩いた記憶がある。観光客などなく、拝観料など不要であった時代だ。
 わたしの歴史熱に火をつけたのは、古田武彦『邪馬台国はなかった』(朝日新聞 1871)であった。魏志倭人伝の「邪馬台国」は、「台」(臺)ではなく「一」(壱)とある。通説では、京都・東大系をはじめ、「いち」は「だい」の誤植である、と「説明なし」に書き換えた。それはない。断じてありえない、と説き、これを嚆矢として、古田さんは、邪馬「壹」国=北九州説を展開する。古田さんは多元的国家論を展開した。これも魅力的だった。それに古代史で決定的だったのは、石渡信一郎『蘇我馬子は天皇だった』(三一書房 1961)で、もちろんわたしは「素人」同然だったが、古田や石渡の「誤謬」や「逸脱」を理由にそのキイ・ポイントを否定するのには組みしない。わたしの古代史は、『日本人のための歴史を考える技術』(PHP 1999)に書いた。
 3 70年代は、圧倒的に、司馬さんの時代だ。
 『坂の上の雲』(文藝春秋 1969-1972)にはじまり、『花神』(新潮社 1972) 、『播磨灘物語』(講談社 1975年)、『空海の風景』(中央公論社 1975)、『項羽と劉邦』(新潮社 1980)、『菜の花の沖』(文藝春秋 1982)、そして最後の長編が『韃靼疾風録』(中央公論社 1987)であった。
 司馬さんの「小説」家としての寿命は、わずか20年間である。もっとも「街道をゆく」も「アメリカ素描」等も、「小説」には違いないが。
 司馬流を手本に、『坂本竜馬の野望』(PHP 2009)を、『寒がりやの竜馬』(言視舎 2015)を、その「不足」部分を焦点に、書いた。『福沢諭吉の事件簿』に竜馬を登場させた理由でもある。
 4 拙著『福沢諭吉の事件簿 Ⅲ』(言視舎)は発売され入手した。うれしいやほっとするやというより、さあ、これからどうするの、という声がする。内燃機関にかすかだが、ポット灯がともった感がある。もちろん、エネルギー源や配線がもはや旧のままではやりくりつかないところまで来ている。欠落状態にあることは事実だ。現実だ。
 5 『総合資料日本史』(浜島書店 1991 初版1982)がずっと手許にあった。「聖徳太子が教科書から消える?」云々、「鎖国」はなかった(?)という議論がやかましい。それで、あまりにも古くなった(?)ので、新版を求めた.。歴史「教科書」の資料篇だ。『新詳日本史 地図・資料・年表
』(浜島書店 2019 初版1991)で、より大判になった。だがやはり文字が小さい。さあ、どれくらい読めるかな。使えるかな。もちろん楽しみだ。やはり最近手にした『詳説日本図録』(山川出版社 2018 第一版2008)より手になじみそう。