読書日々 943

◆190719 読書日々 943
『何を読んだらいいか』
 蒸し暑い。というかパッとしない日が続く。連日の道路(歩道)工事が騒音を響かせている。うっとうしさが重なる。ま、大阪の7~9月の日々に比べれば、ずんとましだが。
 1 1994年6月~95年3月、『中央公論』に書評を連載している。その中に山本夏彦『私の岩波物語』(文藝春秋)がある。『鷲田小彌太書評集成』(言視舎 2011)に収録した。
 書評は、多少気取って「一国の文化水準のバロメーター」などと掲げて、おおむね注文で書いたが、なに素で本が好き、書くのはもっと好き、注文あれば安い(まれまれに高い)稿料であっても、タダで本が読める、書いて記録(記憶)に残る、なによりも勉強になる、というので書き続けてきた。
 これも多少気取っていえば「論壇」デビュー作が『書評の同時代史』(三一書房 1982)で、まだ三重にいたとき、幸運にも重版になって、三一の林さんにバンバン本を出してもらえるようになるきっかけとなった。これを契機に、一冊まるごと書き下ろしの書評集『何を読んだらいいか 読書論の周辺』(三一書房 1984)も出している。そうそう黒田寛一『何を、どう読むべきか』の題名「剽窃」などと揶揄されたが、わたしが「どんな本を読んできたのか」の自(己)証(言)でもある。
 2 ちなみに、この書き下ろし書評集のまえがきは次のようだ。
「読書論の周辺 戸坂、中野、そして谷沢の系譜」 
 「ブック・レヴュー」を意識的・系統的にとりあげた最初の功績は『唯物論研究』(月刊、一九三二年十一月~一九三八年三月)に属する。第45号から最終65号まで、毎号十~十五冊をとりあげた。この研究会の指導者戸坂潤は、『読書法』(三笠書房・一九三八。戸坂潤全集第五卷、勁草書房)を公刊し、従来の趣味的、教養主義的読書法に代わって、「ブック・レヴュ-」を一箇の独立した知的営為の位置に高めたといってよい。
 この戸坂の志を継いだのが中野重治で、その『本とつきあう法』(筑摩書房・一九七五)が昨今の読書論、書評出版の流れの口火を切った。中野には『わが読書案内』(和光社・一九五五)がすでにあり、中野重治全集(筑摩書房)第二十五卷に収録されている。この書物エッセイが迎えられる傾向を最初に察知したのが谷沢永一。「昭和十一年から四十年間、新聞雑誌の求めに応じて書き綴った、一癖も二癖もある中野流読書遍歴の集大成」として、『本とつきあう法』を特筆大書した(「書物随筆が迎えられている」一九七五年五月)。
 とはいえ、書評や書物随筆の現在の流れを意識的、系統的に先導したのは、やはり谷沢永一だといわねばなるまい。その第一エッセイ集『読書人の立場』(桜楓社・一九七七)であり、余人の追随を許さない書評のエキス『完本 紙つぶて』(文藝春秋社・一九七八)である。独立の書物評論家(たとえば紀田順一郎)などをも生みだしたその後の過程の中で、中野や谷沢がとくに異彩をはなっているのは、次の谷沢による中野評につきるといっても過言ではない。
 「中野重治は最初からそうだけれども、自分の意識的な偏見を押し出す。ただその反定型的な偏見の押し出し方が非常に清潔で、独断に満ちているけれども、情念がこもっていて、それを言い表わす的確な言葉がある。」(『読書巷談・縦横無尽』日本経済新聞社・一九八〇)

 戸坂や中野の衣鉢を継ぐ書物批評子がマルクス主義の中から生まれなかったのはきわめて遺憾だ。戦後思想の大きな流れの中で、左翼思想がその独自的位置を失ったこと、これに関連する。以下で私は「書物についての書物」でとくい注目したものを若干数列挙してみようと思うが、左翼関係のものが皆無なのは、私の不勉強あるいは意識的に左翼連を排除した故ではけっしてないことだけは、お断りしておこう。紹介するのはすべて刺激的な書物ばかりだ。
 ■林達夫著作集6『書籍の周囲』(平凡社)をまず推すが、こんな点でだ。
「森戸辰男氏の『革新勢力としての無産階級』 実に何から何まで行き届いた正論だが、どうもこの人少々建築しすぎる。いいかえると教育しすぎる。生ける波状戦があるようでない。この人には読者の顔がいつも学生に見えるのだろう。」(一九三七)
 ■渡部昇一は左翼にはもっとも不人気な一人だが、その『知的生活の方法』(講談社現代新書・一九七六、続・一九七九)は、今日の平板な読書論の流れとは一種異なる要素も混在していることに注意されたい。
 ■丸谷才一のエッセイはみな読まされる。その中での秀逸はいうまでもなく『文章読本』(中央公論社・一九七七)だ。『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』によっても明らかである。」このわけを聞きたくないであろうか。
 ■加藤周一のはいささか「正論」が勝ちすぎてうんざりするが、『言葉と人間』(朝日新聞社・一九七七)だけには、いくつか暗い情熱がひそんでいる。滞米中に書いたことと関係あるのかしら。
 ■寸鉄人をさすというが、『風の書評』(ダイヤモンド社・一九八〇)がまさにそうだ。匿名書評の極北である。
 ■別宮貞徳『誤訳迷訳欠陥翻訳』(文藝春秋社・一九八一)は怪著だ。翻訳時評という新分野を開拓したこともさることながら、その糾弾がホガラカで自尊心に満ちている。ただ私としてその正義調の誤訳迷訳断罪一点張りには、いささかウンザリする。この分野も読書論として正当に位置づけられるべきだ。
 ■私は、植草甚一調より、常盤新平のたとえば、せれくと書評『アメリカン・ベストセラーズ』(PHP研究所・一九八二)の方が好きだ。そのおさえた普段着の書きっぷりにもよるが、徹底して「小さなアメリカ」に焦点をあてているからだ。
 ■徹底的に偏狂しているがごくありきたりの常識の裏返しにすぎぬことを自作自演した点で貴重なのは、筒井康隆『みだれ撃ち涜書ノート』(集英社・一九七九)だ。実に楽しくホホエマシイ。本人がまじめな分だけますます。
 ■最後に、呉智英『読書家の新技術』(情報センター出版局・一九八二)。「封建主義者」と自己規定する特異な立場をとるが、その読書情熱には脱帽。谷沢批判を発条としてさらにその上を行こうとする意気に拍手。
 ■付録として、私の『書評の同時代史』(三一書房・一九八二)を自薦する。「戦後を疑う」派非難に照準を合わせてある。 *社会新報 2597号 1983.2.15