読書日々 990

◆200612 読書日々 990 松下博宣さんありがとう。救われる思いだね!
 ベランダに、水茄子の鉢植苗(?)を置いてくれた。昨年は、小なすを育てたのだったが、今年のは水を大いに飲むので、多少厄介かも知れない。小ナスはぬか漬けにしてもらい、ビールの肴にして楽しんだ。今年はどうだろう。
 関西にいるとき、名物の泉州水茄子を食する機会にほとんど恵まれなかったが、札幌に戻ってからは、いく度か食べた。ただし最高に上手かったのは、増上寺は大門の寿司店で、その美味さはただの漬物とは思えなかった。ただし相当に高いんじゃないかと頭をよぎった。予想は違っていなかった。
 1 こんなブログにであった。
<わが書斎の一角を占める〉 松下博宣 東京農工大教授
鷲田小彌太先生の筆力に脱帽 20200518
 2009年に開催された慶応義塾創立150周年記念事業の一環として開催された「未来をひらく福澤諭吉展」がたいそう面白かった。この記念事業の際に配布された「福澤諭吉展」の資料、史料が充実していて、諭吉研究者・ファン必携とまで言われている。同著を座右において、それ以来、諭吉関連の本を読み進めている。
 さて、諭吉関係の書籍は多数に渡るが、とくに面白いのは鷲田小彌太による「諭吉の事件簿」3部作だ。小説という物語、歴史という物語を架橋する表現のありかたに関する著者独自の見解は「日本人の哲学」全5部作の随所で述べられている。
 歴史をファクトの羅列のみで純客観的に、記する人間の視座、視点、主観、価値判断ぬきに記述することはできないとする著者は、物語、歴史、フィクション、ノンフィクションの都合のよい通弊的な画線を排除し、創造的な表現形態である小説の拡張性を司馬遼太郎を敷衍しながら展開する。
 この鷲田先生ならではの論理的整合性を持つ表現形態論が、現実的対応をもって作品にあっぱれに結実したのが、「諭吉の事件簿」3部作だ。痛快である。
 日本人の哲学5部作でも相当なテキスト量、そしてそれに投入された執筆エネルギーの総量は相当なものであると思われるが、この5部作を書下ろし出版したあとに、登場したのが痛快にして洒脱な「諭吉の事件簿」3部作だ。旺盛な執筆に脱帽する思いだ。諭吉は日本人の哲学の第1巻にも登場し、①洋学の思考、②私立活計、③オーソドックスな国家論、④家長の生き方が簡潔に論じられるが、この部分と件の諭吉3部作を読み合わせると面白い。
 なぜに面白いのか?
 著者自らが、創造的な表現形態である小説を舞台に、諭吉を躍動させているからだ。そこには、上記の①、②、③、④が自由闊達に物語られ、縦横無尽に展開され、諭吉と由吉を取り巻く人物との邂逅、諸々の「事件」が活写されている。諭吉の分身のようなボディーガードの「由吉」は、剣豪でもある。
 剣豪小説も大好きであると、札幌はすすきのに所在する文壇バーでウイスキーを飲みながらマルキストの著者は語っていた。そんな北都の夜を思い出しながらも、ページをめくる手を抑えること能わず一気に読み進んでしまった3部作だ。
 モノ書き日本人論雑書放浪記 No book, No life
 2 うれしいかぎりである。こういう評に出会えると、書いてよかった、その甲斐はあった、とつくづく思える。
 なお、松下さんのことは未知。ただしグーグルすると、札幌市立大学で客員教授をしていたとある。なかに「文壇バー」でお会いしたというような表現がある。おそらく「きらく」であろう。店は4条4丁目(第5グリーンビル4)にありf、いまはわたしの妹がやっている。
 このブログがうれしいのは、「諭吉の事件簿」3冊、「日本人の哲学」5冊、「大学教授になる方法」上下、「研究的生活の方法」という拙主著の写真(背表紙が並んでいる)が添えられていることだ。救われるね。