読書日々 1007

◆201009 読書日々 1007 ホームズ「最後」の事件
 柔らかく暖かい陽光が部屋に入ってくる。ひっそりしている。女房は長沼だ。草を刈るようだ。
 部屋には、いつものように音楽の後援もない。一息入れ、コーヒーが飲みたくなった。今日のノルマはまだ残っている。だが何か肝心なことが忘れ去られている、ということに気がついた。
 1 そういえば昨日、DVD『Mr.シャーロック・ホームズ』を思い出し、ひさしぶりに書庫から引っ張り出して、見た。記憶をどんどん失って行くホームズ「最後の事件」を綴った映画だ。
 晩年のホームズより10歳以上若いわたしだが、よくよくというより、どんどん忘れてゆく。記憶喪失に加速が付いているようだ。
 コーヒーを入れながら、そうそう、「読書日々」を書く、これがすっかり忘れ去られていることに気づいたのだ。大変である。4時台に、気車に乗っていなければならない。3月が街(札幌)に出た最後だから、半年ぶりになる。
 ちゃっちゃと日記をすまそう。そう思えば思うほど、書きたいことが後回しになってゆくような気がする。つい昨年までは、書く速度をセーブしなければ、書きたいと思えることが満ちあふれて、いまにもそのなかで溺れそうな気がしていたのに、と思えてしまう。愚知だ。
 だがそんなことはないのだ。なかった。こう断言できる。
 2 とりあえず、薄いコーヒーをそばに置き、そろりと手と舌を伸ばして啜り、書きはじめた。
 前置きだ。三宅雪嶺の隔日コラムを読み、レジメを作り、書きはじめた。ところが肝心要のことは、拙著『昭和史の授業』(PHP 2004)を開いてみれば、書いてある。というか、そう思った方がいい。昭和史の新しい解釈、それを雪嶺のコラムに見いだそうとするのは、それはそれで面白い。ところが変なもので、雪嶺の大冊コラム12冊分を読んで分かるのは、それがわたしの昭和史解釈のエキスであるということだ。
 こう思えると、急に肩の荷が軽くなった。もちろん錯覚で、肩は凝って重い。頭も重い。軽く思えるのは「気」だ。
 3 とはいえ、あっというまに2枚書いてしまった。しまらないことはなはだしい。
 ホームズは、少年の機転で、記憶を失っていたパズルの鍵を見いだす。
 最後の事件の相談者に、「助言」や「忠告」を与えることではなく、生きる力を与えることだった、ということに気がつくのだ。相手の人生に寄り添う生き方をするということだ。今はやりの言葉で言えば、共生だ。
 わたしのと違うな、と思う。ホームズの魅力が帳消しになる、といったほうがいい。雪嶺のとも違う。「共生」するのはワトソンでたくさんだ。
 4 記憶喪失が加速度的に進む、だれもこれをとめることはできない。じゃあどうするか? 記憶を呼び起こすことに躍起となるのではなく、一つ一つ記憶すべきものを記憶してゆくほかない。広い海に小石を投げ込むようなことだと思う必要はない。
 わたし(たち)はだれでも、広い海に小石を投げるようにして記憶を蓄積してきたのであって、それ以外のやり方があるわけではない。ダダ漏れになっても、嘆き悲しみ必要はない。それが自然過程なのだ。老いても記憶力抜群というのは、羨ましいとは思うが、ま、わたしには、たいしたこと(質量)を記憶していないからなのではないか、と思えてしまう。
 わたしなら、自慢するわけじゃないが、自著をひも解いて、参照する。多少時間が掛かる。なにかまうことはない。時間だけは、死ぬまで、有り余るほどあるのだ。
 5 おっ、まだ1時44分だ。4時までには十分間がある。こうでなくちゃ。