読書日々 1017

◆201218 読書日々 1017 なんだ坂こんな坂
 雪が降った。はじめて除雪車が入った。ただし、昨年同様、今年も積雪は小なのか、塵を箒で掃いた程度の雪量である。ま、除雪業も商売だから、やるべきことはやった、というのか?
 1 雪が降ると、いつも思い起こすのは、広い店の前を、ゆっくりゆっくり雪かき道具で、長時間、撥ねたり押したりしていた父の姿だ。どんなことがあっても、手伝えとはいわなかった。その父も69でなくなって37年になる。わたしの人生も、父の死で一変した。
 ところがわたしの方は、豪雪(?)地の長沼での雪かきは妻任せ、馬追に30年近く暮らし、やり残した仕事にけりをつけ、山を下り、生まれ育った地に棲んでいる。
 2 それでもというべきか、一昨日、いつものように、三宅雪嶺論の穴埋めと削除をやっていると、突然この仕事が終わっていることに気づかされた。ちょっと、呆然である。
 わたしが退職後(2012年)想定した「最後の仕事」『日本人の哲学』(全5巻)を終え、ヘトヘトになり、立ち上がるのもやっとの状態だったが、夏が過ぎ、ススキノにたまに飲みに出ることが出来るようになり、それで厚別に越してきた。何度も書いたが、ここで「最後から2番目」の『福沢諭吉の事件簿』(全3巻)をものし、そして気がつけば『三宅雪嶺 異例の哲学』(680枚)を終えることが出来た。
 祝うべきなのか、やることがなくなってしまったのを憂うべきなのか? でもやはりほっとしている。
 3 在職中も、時たまに会う人に、毎日毎日のように家に居て、なにをされているのですか、というような顔をされた。また飲み屋で、退職して退屈でしょう、とよくいわれる。「仕事」をしているというと、誰彼となく、怪訝な顔をされる。わたしの仕事は、「書くこと」である。40代の初め、すでに「月刊鷲田小彌太」などと揶揄された。でも、当時、単行本を出すのは容易なことではなかった。わたしは出版界の唯一の中心地=東京から遠隔地に住んでいたので、編集者の指名をえるのは、至難中の至難であった。
 それでも遠隔地で仕事が出来る、ワープロとファックスの時代が始まり、あっというまにパソコンとメールの時代になり、東京にいなくても、編集者と膝つき合わせなくても、仕事をゲットできる時代になった。
 手書きの時代は万年筆、ワープロの時代は最後にハードディスクがついた専業用の機器を購入して書きまくった(!?)。
 4 でも、わたしよりほぼ70年前を生きた三宅雪嶺の書いた量と比べると、量的には劣る。なぜか、わたしがパソコンでパタパタ打って、メールで原稿を編集者に渡すのとほとんど同じ量、否それ以上を雪嶺が書いているのだ。なぜか? その多くの原稿が口述筆記であったことによる。
 ところが、70歳を過ぎてはじめた、二日に一回の新聞コラムを10年以上にわって「自前」で書いたのだ。しかも、このコラムが、雪嶺の大誤算となった。5/15事件以来の「非常時」を肯定的に記したからだ。
 「晩節を汚す」という言葉がある。拙著『晩節を汚さない生き方』(PHP新書 2010)は、文字通り、「晩節」の生き方をテーマにしたものだ。「おまえはどうか?」と自分に問いかけてみるが、「書くことをやめない」のだから、「晩節を汚す」ことになる確率の方が高いだろう。エッ、すでに「汚しているじゃないか!」ってか。
 5 トヨタはあいかわらずの高収益である(らしい)。生産台数は、8月で計画の97%、工場稼働率も100%と発表している。凄いというのか、当然というべきか。これに反して、東京や大阪、横浜や神戸、名古屋・札幌・仙台・福岡は消費でもっている。インバウンドもなくなった現在、もっとも「堪え」ている。
 でも、なんだ坂こんな坂、敗戦期と比べると、物の数ではない。ま、食うものがない時代と、食うものがあり余っている時代との落差が大きすぎて、一寸見に、比較を絶するが。