読書日々 1023

◆210129 読書日々 1023 視力は弱いが、眼は丈夫(?)
 1 曇天の日は苦痛でない。
 最近、体調が整わない。というか、視力がどーんと落ちた(と感じる)。
 眼が悪い(のではないのか?)に気づいたのは、中学に入ってからだ。(わたしの生れた村には眼鏡屋はなかった。)野球部に入ったが、晴天の日、外野に上がった球を目測し、捕捉することが出来なかったからだ。それでやむなく卓球部に入った。それがさらに視力を落とす因になるとは思わなかった。二年の時、鈴木昭松先生が美術教師として赴任された。わたしの描いた絵を見て、君は眼が悪い、メガネを掛けなさい、と(東北弁?で)注意してくれた。
 「メガネの水野」ではじめて眼鏡を購入した。裸眼で、すでに0.0?になっているといわれたが、メガネのおかげで、世界は一変した。それでもメガネを掛けても、検眼では平均0.5を前後してきたのだ。運転免許(検眼)用のメガネを準備しておかなければ、免許交付困難であった。それも77歳で断念した。といってもわたしの目は「強い」(丈夫な)方だろう。酷使に耐えてきた。
 わたしは、メガネとTVと車が老人(長生き人間)が快適に生きる三種の神器だと主張してきた。読書と自由移動と娯楽のためである。もはや裸眼ではTVも鮮明に見えない、メガネでもかなりぼんやりするようになった。ただし、これは愚知ではない。本を読むのは諦めるのか? TV観戦も、読書も諦めない。TVは(意地でも)見ているし、(ま、コロナ下だ、)移動はしないし、本はほとんど裸眼が多くなった。むしろ辛いのは、晴天の日だ。光が辛いね。
 2 ずーっと気になっていた本があった。原リョウが14年ぶりに発表した『それまでの明日』(早川書房 2018)である。2019年「ミステリが読みたい」第1位になったいわく付きの本だ。
 原リョウのミステリ『そして夜は甦る』『私が殺した少女』『天使たちの探偵』『さらば長き眠り』『愚か者死すべし』、エッセイ集『ミステリオーツ』『ハードボイルド』の7冊は、鮎川哲也のミステリとはまったく異質の作品群といえる。
 チャンドラー張りのというか、村上春樹が新訳で送った『大いなる眠り』(The Big Sleep, 1939)、『さよなら、愛しい人』(Farewell, My Lovely,1940)、『リトル・シスター』(The Little Sister, 1949)、『ロング・グッドバイ』(The Long Goodbye, 1953)、『プレイバック』(Playback, 1958)と、題名も流れも雰囲気も軌を一にする作品群だった。
 ただし手に取った原最新の作品は、明らかに期待に反する作品である、と断ぜざるをえない。こういう寸評は評にもなっていない、と考える。だが原(1946~)はまだ74歳にしかすぎないのだ。それに探偵坂崎は50を超えたに過ぎない。作品「明日……」を東日本大震災で締めくくるなど、半端な作法じゃないか。もっと「自分を信じないを信じる」に徹せないかな。生半可になったね。
 一度失った勢いは、容易ことでは盛り返せない。それを実証した作品だと考える。坂崎よ、甦れ!
 3 半端な厚さでないというので、読書猿『独学大全』(ダイヤモンド社 20200928)を購入した。たしかに厚い。本文752頁。だが重いが、読みにくくはない。しかし、未読にも等しい。今日はペンネームについて。
 大宅壮一は、敗戦後、戦争協力奔走に「反省」(の振りを)して、戦後、「猿取哲」のペンネームで言論活動を再開した。ペンネームはサルトル哲学をもじったものと受け取られたが、「反省は猿でもやる」、もちろん人間も、そして実存哲学者サルトルも、実に実に「無思想人宣言」する大宅壮一がしてどうだというのだ、というものだろう。
 大宅は昭和初期、極左マルキストの論陣を張り、時局変わって一転、映画製作を戦意高揚の場と見立てて満映に入り、甘粕正彦と覇を競う舞台で活躍した。そして戦後、無思想宣言で、ジャーナリズム(マスコミ)の帝王にのし上がる。そうそう、サルトルも実存主義(「存在の無」)を高唱し、毛沢東主義に転じ、しかし、「存在の無」なのだから、あれもありこれもあるで生き抜いた。