読書日々 1022

◆210122 読書日々 1022 「あのとき池波正太郎に出会えてよかった」
 1 わたしの時代小説好きには、少し「病」に似たものがある。しかもそれを商売の種にもしてきた。その種の素の一つに、大村彦次郎(1933~2019)の時代小説「文壇」史がある。大村は雑誌『小説現代』『群像』(講談社)の編集長をし、昭和の作家に関する膨大な落ち穂拾い(証言)を残した。
 その作品は『時代小説盛衰史』(上下)をはじめとして、ほぼ全部、筑摩書房から刊行された。わたしは昭和文学史の「裏面」というか、いやむしろ「本流」に位置する大衆文学の興亡史をこの作家によって教えられたといっていい。
 ところがわたしは書庫を整理する時、不明にも、大村の全作品を手放した。今ひとつ、心得違いにも、『完本池波正太郎大成』(全30巻 1998-2000)を整理したことが悔やまれる。ただし池波作品のほうは、文庫本や単行本が残っている。その精髄を掘り出すことは可能だ。
 大村の『荷風 百間 夏彦ーー昭和の文人あの日この日』(2010)に、池波が株屋の小僧をしていたとき、菊池寛を目撃し、のち菊池寛賞を得たときその光景を回顧した場面が出てくる。「あのときの菊池寛を目にしておいてよかった」である。菊池寛賞受賞者で、菊池寛に会った人はいない、という思いも加わっている。
 大村の伝に倣えば、「あのとき池波正太郎に出会えてよかった」となる。わたしの最初に売れた著作は『書評の同時代史』(三一書房 1982)だった。これが契機となり(?)青弓社の矢野さんから書評集の注文があり『矩形の鏡』(1983)が生れた。当時、わたしが知っている物書きは藤野順さんただ一人で、大阪時代、藤野さんの奥さんが拙宅を訪ねてくれたことがあるという、奇縁であった。藤野さんは『読書放浪学』(山手書房 1980)をすでにものしていたが、中学の教師で義父となった加藤賢治(当時すでに没)の拓殖大学の級友であった。朝日新聞の編集者を長く務め、『アサヒグラフ』等の編集長を務め、定年後、物書きに転じていた。義父とまったく違うタイプの紳士であった。
 その藤野さんの出版記念会(青弓社主催)に池波さんが来られて、出会えたのだった。わたしは『大学教授になる方法』(青弓社 1991)でベストセラー作家(?)になるまで、出会った作家は、わずかに藤野さんと池波(1923~1990.5.3)さんだけであった。ただし、藤野さんも池波さんもほぼ同時期に亡くなった。
 2 いま精読しているのは、この日記でも触れたように、ドラッカーの処女作『「経済人」の終わり  全体主義の起源』(1939 ダイヤモンド社)である。超弩級に重要な書だ。
 わたしはかねがね、第二次世界大戦は、軍国主義対民主主義の戦い、戦争と平和の戦いという陳腐な標語ではなく、三つの社会主義、ソ連国家社会主義・英仏米社会主義(国家社会主義=ニューディール政策)・独伊日国家社会主義の戦いとして位置づけた。大戦後、英仏(独伊)中心のヨーロッパが退潮し、戦勝した米ソが世界を二分し、独伊日が「占領」国となった。
 ドラッカーの著書は、日本の分析を視野の外に置いている。だが、日本の国家社会主義=全体主義を解明する鍵を与えている。全体主義は過去の遺物ではない。「経済人」(自由主義経済)が「後退」する時、すぐにそしていつでも頭をもたげてくる。
 3 「1枚の写真」(4)  中学の修学旅行(昭31秋) 「乙女の像」を背景に
 小学時代は「お山の大将」だった。近所の子どもを集めては、毎日のように「日課」(今日は相撲、マラソン、等々)を決め、先頭を切って遊び回っていた。そんな写真も数多く残っている。
 しかし、中学に入ると、ほとんど遊ばなくなり、部活動の卓球以外で人に会うこともほとんどなくなった。今考えると錯覚だったかも知れないが、自分では「大人」になったと思えた。
 そして家庭でも学校でも、小学生時代とは真逆、消極的になった。たとえば、万事が「民主主義」の時代である。「今日の反省!」でも、その正否は多数決(挙手)で決まった。学級委員選出や行事万端、多数決で決まるという方式である。実に馬鹿馬鹿しい。ただし、「自主性尊重」という建前だったから、わたしはいつも役回りのない(図書といえるほどのものがほとんどない)「図書委員」を自薦し、教師に睨まれた。
 修学旅行は、十和田湖だった。父が小学で父兄同伴、中学の修学旅行には母が参加した。奥入瀬渓流をバスで行く旅、陰翳のはっとする輝きをいまでも忘れることができない。
 十和田湖畔での記念写真が残っている。高村光太郎「乙女の像」(昭28)の前で、母が半身をすくっと立ててかがみ、わたしが制帽を被って直立しているスナップだ。ボケているが、まだ三十代の母は背後の一対像の威力に負けていない。なおこの像は、光太郎最後の作品となった。