2013.2.1
『日本人の哲学2 文芸の哲学』は江戸期の最後、全体の3分の2に達した。500枚を少し超えたところか。服部南郭=徂徠門下の文人派をねじ伏せ、十返舎一九『東海道膝栗毛』を存分に楽しんだ。この2人は南郭が『唐詩選』の和刻で、一九が『膝栗毛』で超ベスト・ロングセラーを出し、文業で生計を立てることができたのだ。とくに一九は、浄瑠璃をはじめあらゆるジャンルの本を乱作したが、ヒットせず、婿養子に入った商家を離縁され、原稿、挿絵、版下等、板木を彫り摺る以外の仕事は自前で済ませる、まことに本屋(書肆)にとっては使い勝手のいい、どんな注文にも応じる作者であった。ここが同時代の山東京伝、滝沢馬琴、式亭三馬等の戯作者と違うところだった。38歳、初編『膝栗毛』は作者はもとより書肆も当たるとは少しも考えていなかった。「文運」である。しかしラッキーだけですますわけにはいかない。島田清次郎『地上』のように1作だけで消えていった一発屋があまりにも多いではないか。
この弥次さん北さんの滑稽道中記が、書きも書きたり21年間、藤田・白木のでこぼこコンビの「てなもんや三度笠」よろしく、続編、続々編と書き継がれ、ベストセラーを続けることができた「秘密」はどこにあったのだろうか。
京伝を崇拝する三馬は、『膝栗毛』初編(江戸~箱根)のヒットを目の当たりにして、当初、野暮で野卑な滑稽本を下等なものと見下し、憤ることはなはだしかった。ところがすぐに滑稽本の大流行の渦(「バスに乗り遅れるな」)に巻き込まれ、「売れる本がいい本だ」といって、『浮世風呂』『浮世床』を書いて、一人前の作家になっていった。だが残念ながら日本文学の伝統のなかに、『膝栗毛』のような作品、徹底した乾いたタッチの滑稽本がないのである。根づかなかったのである。「文芸の哲学」である。この秘密を書かなくては。
いま読んで書いているのが、柳沢淇園『ひとりね』である。『徒然草』の骨法を借りながら、21歳の2500石(のちに大和郡山藩柳沢家の国老となる)、大身の若者が、遊郭遊び、遊蕩の秘訣をえんえんと書く。この本は刊行されず、写本だけで広まったが、つまりは売れない、売るつもりのない本を書いたのである。『膝栗毛』も『ひとりね』もいってみれば奇書である。書くことの両極にあるものだ。
前回『ビブリア古書店の事件帖』のTVドラマについてちょっと触れた。期待できる、と。3作目は凡作だった。中村獅童や佐藤江利子という豪華ゲストを配しながら、せどり屋の高橋(いまのりにのっている)がうるさすぎる。(このひと竹中直人になっちゃいけない!?)ゴウリキ=栞子もアキラ=大輔もまずまずなのだから、ミスキャスト(?)というほかないのではないだろうか。でも楽しんでいる。
弥次さん北さんは、ホームズ・ワトソン、ポアロ・ヘースティングのコンビと違って、2人とも軽薄短小、毒にも薬にもならない脳天気のコンビだが、そこがよろしいのだ。『古書店』のゴウリキ(ゴーリキ?)とアキラはでこぼこコンビで、ゴーリキがホームズ・ポアロ役である。ちょっと「クセ」がないのがゴウリキの難点か。
浅川芳裕『日本は世界第5位の農業大国 大嘘だらけの食糧自給率』(講談社α親書 2010)は、TPP参加で日本農業は大躍進するという主張で、コメをはじめとする日本農業の自由化促進論である。つづいて『日本の農業が必ず復活する45の理由』(講談社 2011)を出したが、農業優遇・保護策が農業を衰退させる、は従来から多くの人が主張してきたが、自民も民主も(農政にぶら下がっている族議員・官僚・公務員ともども)、農協、副業農家(庭園農業)等の票ほしさに、いっこうにあらたまらない。その最たるものが「個人保障」である。小沢の(悪)名はこの施策とともに長く残るだろう。
わたしの家から最も近い大学は、北広島にある道都大学で、廃業し、他の私学経営に「転売」することを決めた。「倒産」は4年制大学でははじめてだが、ずっと「定員割れ」だったのにこれまでやってこられたのはむしろ不可思議に思うだろう。文科省の私学助成金があったからで、自由化推進で「定員制」や私学助成金を廃止したら、少しはまともな大学教育・研究が進展する。これがわたしの年来の意見だ。