2013.2.8
2/6 柳沢淇園『ひとりね』を書き上げて、『文芸の哲学』はようやく江戸期を抜け出た。司馬遼太郎の母の実家は大和葛城で、生駒山系の麓である。3歳まで祖父に育てられえた縁もあってか、大和にはことのほか詳しいというか、親しみをもっている。大和郡山藩は秀吉の弟、秀長が居城にしたことで有名になったが、大坂の控え、京や伊勢を迎え撃つ枢要の地であり、徳川政権でも親藩や譜代をおいた。元禄政治をリードした柳沢吉保が、綱吉没後、甲府に退き、さらにその子吉里のとき郡山に移された。郡山といえば、あの伊賀は服部に生まれた荒木又右衛門が仕官先であった。などいうといかにも郡山や伊賀を知っていそうに見えるが、意外と知っているのだ。
随筆『ひとりね』は遊蕩の書とでもいうべき奇書で、文人画を開いたひとりである淇園は、10代で、文武技芸のマスターの腕をえた。『ひとりね』『徒然草』には山崎正和のすばらしい現代語訳がある。残念ながらこの書にはない。中村幸彦の校注を参照すると読むことができるが、とても21歳とは思えない老熟ぶりなのだ。井原西鶴『好色一代男』や近松門左衛門『心中天の網島』の「好色」より洗練されているというか、繊細である。『徒然草』の「好色」感(センス)に似ている。
そんな淇園の『ひとりね』にかんして、司馬さんのコメントがある。畿内で、数合で相手を倒すほどならぶものない剣客であったとも記す。司馬さんがどういう材料から情報をえて書いたのかわからないが、絵画はもとより、書、琴、鼓、能狂言を精神論としてよりもむしろ「技術」としてとらえる論には、世阿弥にも通じる。アングリー・キョウホウズ・ヤングマンである。
その司馬さん、日本史のなかでもっとも「しょうもない」と常々いっていたのが、南北朝時代である。その中心に後醍醐天皇と楠木正成というスターがいた。この二人、むしろ正成をスターダム(stardom、king-dom=王国)に押し上げたのが、『太平記』である。時代小説だ。『文芸の哲学』の室町鎌倉期はこの物語からはじまる。つらつら読みはじめると、いつも乗ってきた鉄路の上を走っているように思える。そうだ北方謙三の『武王の門』以下の南北朝を舞台にした時代小説で出会っていたセンスである。流石にというか山崎正和の訳はいい。このひとの文章は少しも大げさではないが、精神の奥深いところを衝いてくる。そういえば『風姿花伝』も『徒然草』も山崎訳で(も)読んだっけ。村上春樹も開高健も、山崎の解剖に舌を巻いた。マルクスの解読も山崎流儀でやることができたらと思い、実験しようとしたことがあったが、すでにE・H・カーが『カール・マルクス』でやっていた。われながらさすがに二番煎じを恥じたことがある。
その司馬さんが『太平記』の「解説」(?)を書いている。南朝正統論は北畠親房『神皇正統記』を嚆矢とするが、現天皇家は紛かたなき北朝である。これを見るに、楠木正成は朝敵であること明かだ。しかしそれは水戸史学、幕末の尊王攘夷論、さらには戦前の皇国史観と齟齬を来す。後醍醐は、皇統を退け、持明院統も幕府も力でもって倒そうとする覇道を主張したのである。このチャイナの皇帝に倣う覇権主義には、北畠親房も、太平記も賛同しているわけではない。
南北朝時代のいま一組のヒーローは、足利尊氏と新田義貞である。尊氏は北条一族で、平氏である。対して義貞は上野に盤踞する源氏である。つまりは源平合戦の再販、リメーク版というわけだ。義貞は、源氏の敵北条=平氏=鎌倉を陥れるが、後醍醐に反旗を翻して東進する尊氏軍と湊川で戦い、正成とともに破れ、北陸に逃れ、転戦したが、黒丸城で油断を衝かれ、敵に首を落とされた。
この黒丸城こそ、わたしの祖先(?)が出たところである。福沢諭吉の祖先は、信州の福沢村から出たので福沢姓を名のったといわれる伝でいえば、わたしなどは黒丸姓を名のってもいいのではないだろうか。黒丸小彌太って、なかなかいいんじゃない。『福沢諭吉の事件簿Ⅲ』に登場させてみようかな。