読書日々 659

◆140214 読書日々 659
「歴史」の名著を、うんざりするほど読む日々がはじまる
 2/13 日本人の哲学4「経済の哲学」(200枚余)をようやく書き終えることができた。3「政治の哲学」(250枚)を書き終えたのが、昨年11/7だったから、ずいぶんかかったことになるのかな。コンパクトだが、構想どうり、経済の中心概念は「資本」であり、消費・産業・商業資本主義哲学の歴史をかなりきちんと論じることができたのではないだろうか。ま、誰も褒めてくれないので、自分で、ということもある。
 続いて5「歴史の哲学」(250枚予定)である。展開はがらりと変える。4部までは、哲学者列伝・文芸・政治・経済の哲学はどれも、代表作の歴史(逆順)的展開であった。「歴史」に媒介されない哲学、作者に表出されない哲学は、「何ものでもない」という思いが強くあってのことだ。
 しかしテーマが「歴史」になった。歴史研究、歴史書、歴史小説等、書かれたもの=記録=歴史は山ほどある。その中心書を逆順時間でたどることは意味あるかもしれない。いわゆる通史スタイルである。大枠いうと、このスタイルにはなるだろう。
 しかし歴史哲学とは、歴史時代とその時代を生きる人間をつかむセンス(感覚)を磨くことが主命だ。歴史観といわれるが、歴史感のことだ。
 山岡荘八描く信長像からは、新時代を切り開いたニュースタイルの人間像はついに見えてこない。北畠親房『神皇正統記』は、皇統をたどってその正統の「事由」を問い質すのであって、「神国日本」を高唱しているのではない。その裏には、皇統断絶の危機を招いた後醍醐天皇の愚行を嘆く魂の震えを看て取ることができる。この人、武人なのだ。
 といっても、歴史である。記録であるよりも文学である、ということを強く押し出してゆきたい。30代から40代にかけて、マルクスの唯物史観について、いくらかまとまったものを書いたことがある。『唯物史観の構想』(批評社 1983)として1冊になった。わたしのマルクスとマルクス主義研究の代表作の1つとみなしているが、のちに全面改稿して『近代西洋社会哲学の精髄 ヘーゲル、マルクスからスピノザへ』(彩流社 2006)に収めた。この機会である。中仕切りに、「唯物史観」と「皇国史観」を一対にして、エッセイ風に述べてみようと思う。
 「経済の哲学」を書き終えて、芯からの疲れを覚える。一休止したいところだ。それにソチオリンピックである。日本はメインのスピードスケートで惨敗状態だ。試合前から疲れているようで、生気が感じられないのは、わたしだけじゃないだろう。「代表になった、目標達成」ではないだろう。スピードスケーターを数多く抱えている日本電産(旧三協精機)の社長、永守重信はポケットマネーでスケート部を存続させたが、無駄を省き無理を強いるモーレツ・トップだ。ベンチャー企業を、M&Aを武器に、45年で1兆円企業にしようとする、ソフトバンクの孫とはひと味違った、辣腕の持ち主でもある。
「赤字は罪悪だ」「怠けている人には辞めてもらう」と買収した子会社の社員に直言し、「すぐやる、必ずやる、できるまでやる」の厳守を迫り、「競争相手に勝利することこそがプロ集団」「一番以外はビリ」と高言する。そして「三流を一流にする」ともいう。自己中でひ弱な御仁には、ただちに顔を背けたくなるハード・ワーカーだ。仕事で読んだ、田村賢司『日本電産 永守重信、世界一への方程式』(日経Bp 20131028)にある。
 ところが、「がんばるな!」「優しいことはいいことだ」のオンパレードである。「生存競争」という生物にとって当たり前の思考と行動を、「弱肉強食」、「勝てば官軍」とみなして恥じないものこそ、非生物ではないのか。どこにも存在しえない人間を想定してのことではないのか。
 もう1冊仕事で読んだ。愛孫娘2歳が10日ほどやってきた。何はなくとも「アンパンマン」なのだ。TV録画したものを、毎日2回、1週間見つづけても飽きない。恐るべしアンパンマンであり、恐るべしやなせたかい(柳瀬嵩)である。昨年10月に94歳で亡くなった。(やなせたかし『明日をひらく言葉』PHP文庫 20120718)