大コラム 平成思潮 時代変動の核心をつかむ(言視舎)

コラムだからこそ 物事の核心をえぐることができる
新聞コラムを中心に構成する「同時代史」

書きも書いたり
 文字通り、平成の開始とともに、匿名・署名コラム執筆(連載)依頼が、毎日・北海道・朝日・東京新聞の順で、ずんずん舞い込みだした。一つ連載が終わると、次というように、途切れることなくだ。それも「変化球」(毎日)、「大波小波」(東京)というような人気(?)コラムであった。道新では、署名・匿名様々な形で、ときには写真入りの「いまを読む」のメンバーに登用された。ま、わたしも、およそ12年間のあいだ。マスコミの紙面を飾った(汚した)わけだ。
 といっても、書きたいことを書いたに過ぎない。わたしも好き嫌いが激しいが、コラムを書くことになんの躊躇もない。むしろ左手で右手を抑えること、しばしばだった。師の谷沢永一はコラムが似合った。650字がいちばん書きやすいともいった。もうひとり、コラムの名手に、清水幾太郎がいる。じつに気張らずに書くが、わたしは清水流の作法をまねた。どんなネタでも、100字程度のことでも、特に著書あるネタについて書く場合は、その関連著書を全部横に置いて、書くこと(じっさいには全著書をそろえることは不可能だが)をマナーとした。「書」を、「書評」を書くことの中心においてきたということだ。
 コラムを書くからには、誤ることを恐れるわけにはいかなかった。野球打者がどんなにすぐれていても、4割を超すのは至難だ。コラムも似ている。自由に主題を選び、自由に書くが原則だ。お仕着せではない。だからこそより易々と方向違いのものになる。そんなコラムを読ませてどうする、というなかれ。このコラム=断片の集積が、わたしという多少ものを考え、書いてきた人間の姿だ。
 時代を、現在を読む。蛮勇を振って(などと大げさに言う必要はないが)「断じ」た。しかしコラムは、集積されると、妙にバランスがよくなる。時の流れ、「思潮」がその混沌のなかから見えてくるからだ。コラムの「妙」だ。そんなわけだから、一つ一つにこだわらず、読み飛ばしていただけたらとも思う。(鷲田)

google: 大コラム 平成思潮(言視舎)