読書日々 901

◆180928 読書日々 901
49歳と76歳の違い
 今年の3/4が過ぎようとしている。M(マンション)に住んでいると、時の移ろいが感じられ難くなる。それでも、気づくと季節が変わっているのだ。このバランスは日本独特かな。
 1 村上篤直(1972~)『評伝 小室直樹』(ミネルヴァ書房 上下 20180920 各2400+税)を新聞広告で見て、すぐ注文。上:679+70p、下:689+45Pの厚さだ。著者の村上さんは1972年愛媛生まれで、弁護士という変わり種だ。厚さには圧倒されないが、著者が記述する、小室さんの破天荒=面白さ、学者としても、生き方としても、そしてなによりもその「生まれついての(by nature)」性格=個性に圧倒される。この本、じつに貴重な貢献である。
 小室(1932~2010)さんの著作(works)を読んだか、読まないかは、社会科学分野を領域とする知識人にとって決定的だ、といっていい。その人の「評伝」である。特に2冊目の著書、『ソヴィエト帝国の崩壊』(カッパ・ビジネス 1980)というド派手な表題とともに、ベストセラー作家となった。ただし小室さん、この本を出すまでは、社会科学の統合を図る「一般理論」を風変わりな少壮学者(無職)として知られていたが、この本がベストセラーとなり、一躍マスコミの「寵児」となった。当時のカッパビジネス(光文社)の新書シリーズは、売れに売れたが、書店の堂々たる(?)本棚に並べてもらえない、図書館ではさらに肩身の狭い「書物」というより「本」(マンガを含む)の類とみなされていた。
 もちろんといったらおかしな響きをよぶが、わたしもすぐ買って読んで、少し長めの書評を書き、すぐ後『書評の同時代史』(三一書房 1982)に収録した。わたしの物書き修業時代はとくに、広松渉、吉本隆明、谷沢永一、小室直樹、司馬遼太郎等々にたいし、批判的摂取という形とを取った。そのだれもが、比較を絶して広い裾野と深い源泉を持っている人たちばかりで、「批判」から専ら「摂取」の方向へとむかっていった。
 若いときのわたしなら、「広告」を見ると、どこからでもいいから「書評」の注文が来ないかな、と思った(に違いない)。書評は、その手間暇に比べて、稿料が桁外れに安い、それでも、本が送られてくる。丹念に読む。短く書くと(書かなければ)、著作の「精髄」が明示できにくい。それが一つ一つ積もれば、たとえ小片でも、「山」となる。わたしの仕事の大半は、「読書」から始まり、「書評」を積み重ねて、自分の血肉になる、というものであった。
 わたしの小室直樹の「最終」評価は、日本人の代表的哲学者=吉本隆明から日本書紀までを総覧した「サミット」(25人)の一人、戦後期=吉本隆明・小室直樹・丸山真男・司馬遼太郎の一人である。つまり小室は日本人哲学者の1/25であり、敗戦後の1/4なのだ。
 数学から始まり、経済・社会・心理・政治・法・宗教の最善・最大・最新理論(家)と角逐することを通して、いうところの社会科学の一般理論構築を目指した小室は、わたしのいうところの「哲学」者を目指したといっていい。ただし、この人、文学・芸術がなかった。おまえにあるかって!? ないねー。
 2 9/23日、入江信一郎さんと、学会で小樽へ来た帰途、新札幌駅で待ち合わせ、初めての店』(「むかしがたり」)に入る。高架線の一角の飲食店は、何回かはいったことがあるが、古い。居酒屋は久しぶりというか、東さんと入ってからだから、ゆうに20年ぶりというところか。でも入って驚いた。マスター(女性)の応対がいいもだ。注文したものには、ベタがない。酒も各種ある。入江君、49才、まだ若いが、京都工繊大の助手でイノベーター論をやっている。長い論文(pdf)を添付してきたが、50歳は研究者にとってようやく一人前の季節に入る。いや研究者ばかりではない。人生も同じだ。
 50歳まで、ひとかどのことをやっていないと、根から「腐る」というのがわたしの経験則でもある。
 ちなみに、わたしの人生区分は、①~35(前)、②~55(中)、③~75(成)、④~(老)である。偶然だが、33で職をえて、49で売れ、70~75で「主著」(?)を書き上げ、いま76である。入江君はどうなるのだろうか?