読書日々 936

◆190530 読書日々 936
新刊『どんな大学に入ってもやる気が出る本  ホンネで考える大学の活用法 AtoZ』
 夏の陽射しのような日が続いている。といってもMの一室は、じっとしていると涼しいというか、じんわりと冷える。ま、贅沢ということだろうが。これ先週のくりかえしか!!
 そういえば初鰹と思いきや、根室で秋刀魚があがったという。
 1 『福沢諭吉の事件簿』全3冊が手から離れた。わたしは校正で、誤植、誤記以外は直さないというか、書き込みさえしないことにしている。3に長い「あとがき」をつけようと思ったが、諭吉論であるが、「小説」である。それもミステリ仕立てだ。ほんのご挨拶程度にしようと思う。
 鮎川哲也はミステリ作家だ。同時に、エッセイ、コラム、作品解説等、大小、さまざまな形式でミステリ評論、豆評伝を書いている。とりわけ小説史から名を忘れられたミステリ作家=「人物」に焦点を当て、多く、インタビューをもとに書いている。といってもそれらすべてが、鮎川によって「書かれたもの」=小説である。しかも鮎川は平気で「ウソ」をつく。
 ノンフィクションという呼び方がある。小説=作り物ではなく、事実に基づく非・創作といいたいらしい。時代小説と区別して歴史小説というがごとくにだ。
 わたしは総じて新しがり屋ではない。というかニューファッションを装おうとしても、身の丈に合わない。しかし新しい物が好きだ。とりわけ古いものに新味を見いだすのを好む。
 2 わたしの父が書いた唯一のもの(活字)が残っている。身辺雑記の類ではない。「昭和初期の厚別駅前」(札幌文庫・別冊『札幌歴史地図〈昭和編〉』札幌市教育委員会 1981)である。
 さらに貴重なのは、家屋名を記した図面が載っていることだ。記述では、昭和5年の豊作貧乏、6、7年とつづいた凶作のあと、8年の豊作で米倉に2~3000俵うずたかく積まれたとある。厚別は米所であった。これを含めて曽祖父・祖父・父・母・義父にまつわる文章を、年忌集『鷲田の家  二〇一七年』(私家版) 2017)に納めた。
 3 読書日記とうたいながら、読書記が少ない。というのも、このごろ手にするのは、ほとんどが二読三読書の類で、しかも読むとすぐ忘れるのだ。新刊書も手に取るが、こちらはもっとはやく忘れる。書名さえぼーっとしてしまう。作者名は忘れるというより、覚えられない。
 往日(?)、読むと忘れがたく、書評なども二読三読するというのではなく、一読、数日放っておいて、記憶に残った欠片だけを集めるようにして文字数通りに評すること多かった。といっても、当時は今ほどの惚けではなかったから、忘れるために次の本を手に取るようであった。(ま、どういおうと自慢話だね。)
 4 拙著『どんな大学に入ってもやる気が出る本  ホンネで考える大学の活用法 AtoZ』(言視舎 2019.5.31)を宅急便で入手。
 大学に入って本気で勉強・研究しようとする人にとって、羅針盤以上のものとなることを目して書いた。とくに本格的に知的飛躍を目指そうと思っている人の手に渡れば、それ以上のことはない。
 同便で、拙論「文学部とは何か?」所収の江藤茂博編『文学部のリアル、東アジアの人文学』(新典社2019.3.25)が届く。
 拙稿はかなりまともなもので、日本で「文学部」がどうはじまったか、どう変化したか、現在どうであり、今後どこに向いているか、を明らかにし、文学部を理解し・入り・研究したい人の手助けになりうるだろう。
 大学は、入っても、うかうかしていると、あっというまに無為のまますぎ、-αの別人になる。
 同時に、その4年間は十分すぎるほど長い。やればやるほど濃くなり、そしてあっというまにすぎ、+αの別人になってしまう。これって恐ろしいよ。