読書日々 937

◆190607 読書日々 937
自著を取り出して読む
 1 毎日決まったスケジュール(?)ですごしている。
 PCを前にしていないときは、頭を空にしてTVに向い、好みの番組を観ている。いまは「ブルーベリーナイト サーガ」と「インハンド」以外に観たい番組がない。ミステリーチャネルは観たいものは観てしまった。潮時か! それで番組表に印をつけ、旅の番組にチャンネルを合わせる。ただし、過半は一度観たものだ。タレントが喰ったり喋ったりするのは、ちょっと辛くなった。
 5チャンネルのzeroは、細切れで、やたらとCMが多い。ま、CMがTVの本番なのはわかっているが、内容zeroといわれても仕方がない。これじゃ観るものを失う。
 諭吉の事件簿の校正に精を出しはじめてからは、ときどき部屋を抜け出て、新しい空気を吸いにM外に出て、背伸びをしてくる。ただそれだけだ。ときに暖かい風が吹く。吹き抜けてゆく。気が萎えたときは近くを一周してくる。信濃神社の境内は古木が残っているが、社殿が立派すぎ、妙な感覚に包まれる。
 朝晩の二食、晩は連合いの手料理で晩酌、昼や夜は疲れると部屋で一人酒を飲む。こんな生活だ。規則正しいといえばそれまでだが、校正は厄介だ。
 2 いま手許に取り立てて読みたい本がない。新刊本を手にしなくなって大分たつからでもあるが、多少まずいかもしれない。好奇心が萎えたのかなと思えるが、生命力の弛緩かな。これはもう仕方がない。
 わたしはたくさん書いてきた。売れたものはそのほんの一部だがそれでも幸運だった。売れなかったもののなかに、自分の好きなもの、再読に耐えうる(と思える)ものがいくつかある。そんな一冊に『「深く考える」 できる人の思考法』(青春出版社 2003)がある。
 一年間、国内留学で遊学中、栃木は秘境の板室温泉に滞在中、書いた本だ。この温泉地、当時はPCでメール送信不能の地で、昼、15キロほど車で走ってメールの送受信をやっていた。
 わたしの本は、自分で書きたいと念じて書いた本以外は、ほとんど注文だった。この本は、編集者になって2冊目の本を作るという新人(?)辻本さんの注文に応じて書いた。気に入ってくれたが、残念ながら売れなかった。21世紀に入る境目で、出版バブルはすでにはじけていたが、編集者にとっては苦しい時代がやってきたときだ。辻本さんはまもなく、この社を離れた。編集者(とともに著者)にとって良い本が、ビジネスチャンスにつながらないケースを何度も何度も経験した。でもそれがビジネス世界で、書物も例外ではない。
 3 この本、いまでも、いえ、いまこそ、読んで、わたしのためになる本です。面白いもので、この本にかぎらず、わたしは可能なかぎりこれから来る人の人のために本を書いてきましたが、その来る人のなかにはわたし自身が入っていたのだと、パラパラめくりながら気づかされることがありました。
 なんか、一見、自分の本を読んでナルシストに違いない、気持ちが悪いんじゃない、と思われるかもしれません。でも、どんなまずいものを書いても、その読者のなかに自分(作者)がおり、思い知らされることを含めて、感じる、ときには感銘する部分もあるのです。これこそ、著者冥利に尽きるのではないでしょうか?
 4 「平等」観の根底にあるのは、「嫉妬」だと看破したのは、イギリスの17世紀の思想家ホッブズです。ルソーは病的なほど「嫉妬」の人でした。もう少し敷衍すれば、「平等」や「正義」を大いに主張する人、不平等や不正義を糾弾する人の心底にあるのは「嫉妬」です。
 税金はもつものから獲れ。政治家は無報酬でいい。これは平等社会に始まったことではなく、古代ギリシア・ローマに始まったことです。デモクラシーですね。ルソーの嫉妬深さに辟易したヒュームは、インディペンデント(私立活計)で生きた人です。他人の幸運を羨まず、自分の不幸を怨嗟しない人でした。自立自尊で生きた人で、福沢諭吉の先生というべき人です。