読書日々 938

◆190614 読書日々 938
喜寿の会だって
 よい天気の日が続く。じゃあ気分がいいかというと、そんなことはない。長沼の丘の上にいたときも、厚別のコンクリートの中に収まってからも、「戸外」にはほとんど出ないからだ。もちろん戸外を(屋内から)眺めることはあった。いまはそれさえも少なくなった。TVの画面が「室外」になった観がある。病気かな。ただ一つ、週に1回、歯の再建に通っている。もう半年近くになるが、いつ終わるのやら。
 1 20年以上も前になるか、『たかが人間じゃないか』という本を書いた。注文でだ。書いて送ったが、梨の礫に終わった。こういうことは何度かあった。出ないものは文句を言ってもはじまらない。それが出版界の事情だ。それでもやはり無念さは残る。愚知の類だ。
 5章仕立てで、1章50枚(400字詰め)。
 1.たかが男じゃないか
 2.たかが女じゃないか
 3.たかが仕事じゃないか
 4.たかが遊びじゃないか
 5.たかが人生じゃないか
 で、書きたい放題であった。原稿はデジタルで残っているが、「いま」出すのはやばい。そう思える。じゃあ、20世紀ならよかったのか? たしかにそうかもしれない。
 21世紀だ。「人権」「女権」拡張論者の袋だたきになる恐れ大だ。でも内容は「正常」だ。ニュートラル(中立)ではなく、強弱をつけてあるからだ。キルケゴールの、正しくはヘーゲルの絶対矛盾的自己同一だ。
 男と女は、人間の絶対矛盾的自己統一だ。「男」を「女」との対比・対立で捉えることでようやく「人間」を語ることが出来る。仕事を遊びの対比・対立で捉えながら、仕事に熱中すれば、遊びよりも楽しいことになる、仕事=遊びということを語りたくなるじゃないか。
 漱石は苦虫をかみつぶしたような顔をして小説等を書いていたが、道楽になるほどに熱中してこそ「仕事」だ、と弟子たちには宣っていた。本気だったと思える。その友人の子規は、短歌や俳句の革新運動を提唱したが、漱石、弟子のキヨシやヘキゴドウより下手な歌詠みで、呻吟していたかに思える。
 2 宮脇俊三『私の途中下車人生』(講談社 1986)は宮脇本の最後に読もうととっておいた本だ。一読、さして面白くはなかった。ま、中央公論社時代、『世界の歴史』、『日本の歴史』のベストセラーを出した時代のことは、なるほどと思えたが、あとは、作者の鉄道本を読めば、よくよく分かろうというもので、特に新味はなかった。ことほどさように作家の「自叙伝」は面白くはない。
 この人の面白さは、「文明」論にあるのではなく、鉄道は、戦争中も、敗戦直後も、走っていた、戦前にあったものは戦後もあったという「平凡」なことを語り続けたことだ。だから、環境論や、自動車文明に対する反感を語り出すと、眉に唾となる。開高健が、壮大な自然保護を口にしだすと、つまらんちんになるのと同類だ。
 3 友人の岩崎さんは慶応ボーイだ。岩波、中公、筑摩の本をまっとうな「書物」だとみなす、お堅い人だ。以前から、この三社から本を出せということしきりだ。ただし、わたし、これでも筑摩から2冊(新書)を出している。岩波からはシリーズ物で論文3本(その他)、『中央公論』には書評を連載していた。あわせると岩波・中公に各1冊分書いた勘定になる。なんてね。
 わたしの本をたくさん売ってくれたのは、青弓社、PHP、日本実業出版社で、たくさん出してくれたのは三一の林、PHPの阿達、言視の杉山各編集者だ。どれほど謝してお礼しても足りない。
 今年、歯が生えそろえ(?)ば、上京し、岩崎さんと二人で喜寿の会を開こうと予定している。