読書日々 940

◆190627 読書日々 940
居酒屋の職人がやめ、補充が効かない
 陽射しが強い。本格夏に突入の感がある。
 1 6/23 新刊『福沢諭吉の事件簿』(言視舎 19.6.30)のⅠ、Ⅱが完成、送られてきた。
 帯に「本格 歴史小説 大作」とある。待ちに待った本だが、ちょっと気恥ずかしいね。でも、書かれたものはなんであれ「創作」=「小説」である。フィクションだ。問題はリアリティがあるかどうかの問題で、「論」理で押す評論(たとえば『日本人の哲学』Ⅰ~Ⅴ)と、「実」理で押す時代小説との違いだ。
 この上は、多くの人に読まれ、5千部や1万部といわず、数十万部、数百万部売れて欲しい。それが著者の本音だ。
 Ⅲは多少の混乱があり、書き直しが必要になり、ただいま再校中だ。わたしとして、三冊で、諭吉の大本を語り尽くせたと思える。長いあいだかかったが、実にすがすがしい気分だ。
 2 巡礼仲間、とりわけ慶応出身の岩崎さんをはじめ、多くの皆さんには大いに吹聴してきた。大量購入を願い、多くの人に手渡してほしい。読んでほしい。批評してほしい。みよこ姫、キヨ女、あいこ妃等々にも、切にお願いしたい。
 諭吉は幕末明治期の哲学者・物書きではあるが、その「一身独立、一国独立」論、「脱亜論」「富国強兵論」の重要さは、時代が変わり、敗戦後74年を経ても、基本的には変わっていない。
 同じ幕末から明治期を、司馬遼太郎はたくさんの小説やエッセイで活写している。わたしも多大の影響を受けてきた。紛れもしない「司馬大明神」といっていい。しかし、祈願の対象としてではない。
 司馬さんには諭吉を媒介にして、諭吉を通り抜けた「議論」がないように思える。とりわけ帝国憲法の見事さ、それを作った人たちの暗中模索の苦しみ、等への言及が欠けている。司馬さんもまた、戦前と戦中を対立の軸で捉え、その連続性を軽視する論調のなかにある、と思えるのだ。
 3 24日、街に出る。どこもここも人手不足という。とくに居酒屋等ではなはだしいらしい。主婦をパートで雇うわけにはゆかないといわれるが、アリだろう。
 行きつけの二軒、新聞広告を出しても、反応なしだそう。求人難、バブル期を超えたそうだ。
 これを社会の総体から観れば、よろこんでいいはずだが、どうも新聞ではそうではないらしい。人間に「不満」はつきもので、human=不満=人間、である。
 じゃあ、なぜ・どうして人間は「不満」の塊なのか? 言葉をもってしまったからだ。「言葉」とは、いま・ここに、いまだかつて・どこにもなかったものを呼び起こす、まるで「無」から「有」を生み出す、真の創造者だ。人は言葉で喚起したものを、是非もなく造ろう=創造しようとする。してきた。これからもだ。
 言葉とは無制限な欲望を喚起する原基=原動力である。そして、多かれ少なかれ、人間は言葉で喚起したものを、平たくいえば「欲したもの」を、遅かれ速かれ実現してしまう。むしろ恐ろしいのは、人間、欲したものと実現したものとの落差に苦しむよりも、欲したものを実現してしまうワンダーに度を失ってしまうことではないだろうか。
 わたしが最初に書いた論は、「幻想論の理論的支柱――吉本隆明批判」〔上田三郎〕(『唯物論』、第一集、1969・10・20)である。上田三郎は筆名で、『唯物論』は大阪大学のサークル誌だ。原稿用紙43枚の堂々(?)たる論文で、ほとんどマルクス・レーニン主義の「原理」(教条)によって、吉本隆明を切って捨てるという「蛮行」を演じた。
 だが、だからこそ、わたしは後年(1990年)『吉本隆明論』(三一書房)を書くことが出来た。主著の一つで、自分を吉本主義者とみなしている。その評価軸は『日本人の哲学』で、つまり今日まで変わっていない。