読書日々 941

◆190705 読書日々 941
頭惚けたが、まだ書きたいものが残っている
 先週は1日早く書いた。歯の再建をしている。金曜に重なるためだ。今日は雨という予報だったが、今のところ天気は良い。かさなしでいこう。
 友人が二人、出版記念をしてくれるという。そのうちの一人が、「Ⅰ、Ⅱともに読んでしまった。面白い。Ⅲはいつ出るのか」、と電話で伝えてくれた。うれしいね。希だからね。書いた甲斐があった。
 1 連あいの誕生日をときどき忘れる。何もかも忘れっぽくなったせいではない。誰の誕生日も、忘れざるをえないほど忙しかった、というかせわしなかった。多くは外出していた。気がついたら子供たちが家にいなくなっていた。もうそれからは、夫婦の誕生日を祝うなどということも(ほとんど)なかった。そうやって50年近くなる。「花」でも贈らなければ。もうおそいか。
 2 諭吉の事件簿Ⅲの再校を終え、「あとがき」を書いた。まだ直しがあるので完全に手を離れたわけではない。多くの人に読まれることを強く望んでいるが、ともかく本になる。まずは出版社の奮闘に強く強く感謝し、その上でいえば、売れることを祈らなければならない。
 3 学生時代サークル雑誌『唯物論』を皮切りに、『知識と労働』、『季報唯物論研究』、『クリティーク』、北海道に戻って『北方文芸』の刊行や編集にかかわってきた。季報唯研は、今も畏友田畑稔をはじめとした大阪大学のかつての友人たちの努力で、出続けている。頭が下がる。唯物論研究を標榜する全国唯一の雑誌である。
 4 缶詰(アスパラ)を開けるのに、小さな万能ナイフにつく缶切りを使った。他が手元になかったためだ。貧弱で使いずらく、ひどく力がいるため、親指の根元がうずく。ま、指だけではない。じっと座ってパソコンに向い、残りはTVの前に対座する生活だ。
 気が向けば近くの信濃神社の境内をぶらつく。といっても二日に1回は出向くようになった。巨木の森がほんの少しだけ残っている。神社は改築されてまるで様子が変わったが、70年前の木木が残っている。司馬さんは、奥さん連れで毎日、近くを散歩したそうだ。わたしたちには連れだって歩くということがなかった。車が気分転換の道具だったが、それも捨てた。ま、ふらつく足で歩くのもよしだな。
 5 やはり無性に鈍行に乗って日限を決めず全国を泊まりながら、ぶらぶらしたい。とくに裏日本をだ。でもまだ心に疼くものが残っている。
 かつてといっても、すでに40年になるが、同僚に、「そんなに書いて何になるの」とよくいわれた。最後に、三宅雪嶺という巨峰を踏破してみたいのだ。
 その全著作を読破するだけでも難行だ。それでも、遺稿の大冊『人類生活の状態』以下7冊、『一地点から』『隔日日記』以下10冊は、戦後、野依秀一の努力で出版された。これを紹介し、その意義を確定することなしに、雪嶺の全貌を示すことはできない。
 『同時代史』(岩波書店 全6冊)は司馬遼太郎にもっとも大きな影響を与えた著作だ。その司馬さん、雪嶺の帝国憲法評価にほとんど言及していない。まずいんじゃないか。丸谷才一は、帝国憲法を文体不如意の由で切って捨てているのと一対をなす。
 雪嶺は、帝国憲法をもってはじめて日本人は日本人になった、と断じた。記憶に留めたい一語だ。諭吉が言うべくしていえなかったテーゼである。
 雪嶺は『真善美日本人』(政教社 1891.3.3)と『醜悪醜日本人』(政教社 1891.5.30)を書いた。なぜこれを書きえたのか。「大日本帝国憲法制定が日本建国以来の盛挙」としたからだ。曰く。
 戊辰の革命(明治維新)のごときは、六〇〇年来の幕府を倒し、政権を帝室に収攬したのであって、旧制に復したに過ぎない。今日の改革(大典制定)は、開明社会の人民には適合しない君主専治制が改められ、世界各国あげて政体のもっとも優美なるものと称道されている立憲君主制の根基を肇開〔ちょうかい〕されたのである。かくして君主と臣民との感情が、暴力や強制によらずに、一致投合することが可能になった。国家と国民との間に隔意なき基が築かれた。盛挙であるという理由だ。したがって、日本国民は大典と時を同じくして生まれたのだ(「日本国民は明治二十二年二月十一日を以て生まれたり」『日本人』1889)とした。