福沢諭吉の事件簿III
最後から二番目の著作
『日本人の哲学』(全五巻全十部)を最後の著作と思い、渾身の思いで書いた。
幸い、力が残っていた。念願の福沢諭吉論と三宅雪嶺論を書ける力が残っている
のではと思えた。それで四年余り、先ず諭吉論Ⅰ~Ⅲである。
ミステリ仕立ての時代小説だ。諭吉は仕事人としては、作家であり、起業家で
あり、教育者だ。その諭吉に「謎」の部分、まったく『福翁自伝』には登場しない「顔」
がある。思想家=哲学者として「無視」できない顔で、その中心部分を明らかにし
たい。
「論文」スタイルで書くのは、さほど困難ではないように思えた。だが困難を覚
悟で小説にした。なぜか?
福沢論の基本となったのは、三宅雪嶺(哲学者)で、その雪嶺に歴史と人物評
価の核心点をもっとも教えられたのが司馬遼太郎だ。ところが、司馬は、残念な
がら、諭吉を描かなかったばかりか、諭吉が書かなかった「自分」史と根本で違う
メッセージを与え続けた。司馬の限界で、司馬好きのわたしにとって見過ごすこ
とはできない。
「異論」を展開したいのではない。諭吉の「謎」は諭吉の著作にある。これが
「正論」だ。この定則をあきらかにするために、二人の人物に登場、活躍を願った。
坂本竜馬であり、福沢由吉(ゆきち)である。
くわえて、この長篇は、幕末~日清戦争間の重要事件=歴史を知ってもらう縁
(よすが)となればと、くわえて生きた諭吉の「貌」が明らかになることを願う。
最後に興味津々かつ知的な時代小説であることをお約束します。(20190804)