読書日々 957

◆191025 読書日々 957
幸福行き
 1 雪嶺『同時代史』は全文「文語文」だ。もっともわたし音読するを「恥」としてきたから、暗記もそして文語も苦手というより避けてきた。高校の国語教師が一葉研究家で、大学で同僚となり、そのゼミが一葉の小説を音読し、一葉の恋の行く末を談じるという。「エッ、授業で、それも真っ昼間、しかも愛について真顔で論じることが出来るの? 恥ずかしいんじゃない。」ということだ。三島由紀夫『小説とは何か』(1972)がとくとくと述べているようにだ。ま、偏見だが。
 山本夏彦『完本 文語文』に斎藤緑雨とともに辰野隆(ユタカ 1883~1964)『忘れ得ぬ人々』をはじめとしてたびたび登場する。辰野は建築家の金吾の子で、東大(仏文)を出て日本人最初の東大助教授になった。弟子も孫弟子も山のようにいる。大江健三郎もその一人だろう。
 雪嶺の妻は田辺花圃で、一葉の「恋人」となる半井桃水門下の姉子(でし)でいちはやく小説でデビューした。それをみて一葉も小説「たけくらべ」他を書いた。一葉の名、今に残るゆえんである。
 『忘れ得ぬ……』の冒頭(序)は「忘れ得ぬ風ボウ〔貌〕」で浜尾新(東大総長)とならんで三宅雪嶺が登場する。意外の感に打たれることしばしだったが、一読するとたちどころに了解できる。雪嶺、訥々として話しを端折らない。(わたしなどと違うところだ。)
 そうだが、痒いところにも手が届くようなせりふまわしは、雪嶺のものではない。文語文がそうだ(と山本夏彦、しきりに、専一に説く。)。わたし風にいえばサルトルの行文は、およそ三分の一の分量で説くことが出来る。大江健三郎のセリフ回しならおよそ半分で説き終えることが可能だ。
 中野重治はネチネチと行きつ戻りつの文行を常とした。しかしそれは簡単明瞭に断じるための準備歩行で、『レーニン素人の読み方』(筑摩書房 1973)は目が覚めるように読みやすかった。同時に「難問」部分はカットに次ぐカットであったが。
 2 『同時代史』第一冊終端、明治10年、西南戦争がおこり、薩・熊・日向・豊後を巻き込んだ大争乱となった。戦間は明治10年2月15日から同9月24日(西郷自刃)まで、およそ激戦に次ぐ激戦で、出征兵だけでも官軍51858対薩軍約4万、死者は官軍6843、薩軍7276にのぼった。
 この戦いの結果は特重だった。「旧薩藩」軍の反乱鎮圧で、反国家の諸「力」発動の不能が明瞭になった。しかも4.26に木戸孝允病没し、明けた11.5.14、大久保利通が紀尾井坂で惨殺され、ここに維新三傑があいついで亡くなるという結果になった。以下第二冊に続く。
 3 昨日「新日本紀行」が4Kに衣替えして蘇ったのを観た。昭和48年3月放送、「幸福行き」である。昭和48年は、わたしたちが結婚して三年、はじめて定職をえた年である。しかし幸福駅周辺の雪景色は、52戸、風以外、開拓地特有の音のない世界で、福井は大野からの移住団であった。(そういえば、大野にも鷲田姓が存在している。)それが現在、大規模農法に転じ、大根等を大量出荷している。ま、わたしが万年筆でマス目を一つ一つ埋めていたときから、パソコンで横書き、1行40字でキーボードを叩いているのだ。原稿用紙も消えた。隔世の感があって当然だ。
 いちばん変わったのは、だがその雪の景色だろう。現在は、雪道が幹線道路にかぎらず、ほとんどきれいにはねられているが、かつてはどこも幹線を除いて自力で踏破しなければならなかった。朝起きると布団の上に窓から吹き込んだ雪がへばりついていることしばしばだった。妻の実家(野幌原生林端)は、戦後開拓に入った僻地の廃屋というべきところで、それが列島改造期にいっきょに団地化された。当時、わたしたちは三重県の上野の南端に住んでおり、交通の便は悪くはなかったが、僻地という点で妻の郷里よりもはるかに優って(?)いた。
 特に帯広幸福駅周辺だけでなく、日本中が電化され、水道が通り、自動車が交通運輸の主体となった。この変化は日本だけではないだろう。およそ10年間、巡礼で主として地中海周辺の田舎を回ったが、EUになってからの変化はさらに急激だった。チャイナや韓国等は(TV画面を通して見る限り)もっと激しいに違いない。