読書日々 992

◆200626 読書日々 992 コロナ・ウィルスって何?
 暗い。ひさしぶりにストーブのスイッチを押した。ほんのりと暖かい。気持ちがいいね。

 この数ヶ月、コロナ・ウイルスに振り回されている。(わたしはじっとしているが。)最近はウィルスとの「共存」まで語られるようになった。でもウィルスと「共存」は熊との「共存」とは違う。そもそも「ウィルス」って何か?
 「哲学」である。『日本人の哲学』(第4巻第6部「自然の哲学」)で挑戦した。「盲蛇に怖じず」の観ありだが、恰好の「哲学者」を見いだし、その尻尾を掴もうと試みた。以下、再録する。長い(短い?)が、雰囲気だけでも味わって欲しい。もちろん、分からなくてもいいが、分かろうとする気組(メンタル)くらいはもってもいいのでは?!

3 生命と非生命とのはざま  福岡伸一 p73~78
 デカルト的機械論を脱する。そのためには、人間機械論を極限まで追い詰め、パラダイム・シフトを敢行する。このシフトはいかにして可能か?
 分子生物学の世界で活動・研究しながら、分子生物学(だけ)では「生命」は解き明かせない、「生命体=生物」の定義にはパラダイムシフトが必要だ、と説くのが、福岡伸一である。福岡は、今西錦司が避けて通った分子生物学の分野で、今西の自然学=進化論に通底するエッセイ形式の自然の「学」=「文学」、すなわち哲学を展開する。
 ただしいそいで訂正しておかなければならないが、デカルト主義〔カルテジアン〕とは心身二元論であり、人間機械論に一元化するのは、乱暴というより、あまりにも雑な哲学史知見である。デカルトの有名なフレーズは、「われ考える、〔ゆえに〕、われ在り。」なのだ。
 福岡伸一、一九五九年、東京生まれ。まずそのストーリーテラーぶりに感嘆する。だれにでもわかる「明晰判明」(デカルト clear and distinct)な表現を駆使する。今西グループに通じる才能(talent)だ。
 今西は「サルと人間とのあいだ」、サルから人間への進化(変化)を解明しようとする。福岡は、「非生命と生命のあいだ」、非生物から生物への変化(進化)を解明しようとする。二人は、同じように、「あいだ」をぎりぎりのところまで追いつめる。だが、時間は不可逆である。「同じ川に二度はいることはできない。」(ヘラクレイトス)、「覆水盆に返らず。」(呂尚=太公望)、「流れる水はもとの水にあらず。」(鴨長明)である。時間の「壁」(=とめることはできない)があるのだ。
 今西はチンパンジーからヒトへは、「なるべくしてなる。」と書く(=「規定する」)。というか、そうするほかなかった。福岡はどう述べるか。「動的平衡」で、概念的には、「なるべくしてなる」と同意である。今西の場合、焦点は「チンパンジーとヒト」の「接点」だった。「反復(=再現)不能」な過程(時間)が解明をはばむ。だが、分子生物学に身をおく福岡は、生物と無生物との「中間」に「ウィルス」を見る。ウイルスは、かつても存在したし、いまも存在する。チンパンジーからヒトへの進化過程にあった「存在」(somebody)とは違い、再見可能なのだ。では、問題はより明瞭になったのか? そんなことはない。
 (1)DNAの世紀  ウイルスは生物か?
 ウイルスは単細胞生物よりずっと小さい。ウィルスを「見る」ことができるようになったのは、一九三〇年代で、電子顕微鏡が開発されてからだ。細菌学の創始者コッホはもちろん野口英世も、ウィルスを知ることはなかった。このウイルス、日常でよくよく聞く名だが、生物学者たちの「生物」という概念に一大転換〔パラダイムシフト〕を迫る存在である。なぜか? ウイルスとは、
 ①非細胞性で細胞質(構造)などもたない。基本的にはタンパク質と核酸とからなる粒子である。
 ②他の生物は細胞内にDNAとRNA両方の核酸が存在するが、ウイルスは基本的にどちらか片方だけしかない。
 ③他のほとんどの生物の細胞は2n(2倍体)で、指数関数的に増殖するのに対し、ウイルスは一段階増殖する(コピーがコピーを作る)。
 ④単独では増殖できない。他の細胞に寄生したときのみ増殖できる。
 ⑤自分自身でエネルギーを生産しない。宿主細胞のつくるエネルギーを利用する。(『動的平衡』2009)190
 細胞は生物の基本的な構成単位である。動物も植物も、およそ生物はすべて、細胞の活動によって「生きている」。細胞を形成しないということは代謝をしないこと、「無生物」を意味する。この意味で、ウイルスは単一分子=無生物である。だが、「生物」の定義=「自己複製する能力」(DNAもしくはRNA)をもつ。(『生物と無生物のあいだ』2007)ウイルスこそ生物と無生物の「中間」なのか? ついに「失われた環〔ミッシングリング〕」は見いだされたのか?
 否だ。ウイルスの「発見」は、「生物」あるいは「生命」のこれまでの定義=「自己複製能力」に変更を迫ることを意味するからだ。福岡はこの難問をどのように突破するのか?
 (2)動的状態  ルドルフ・シェーンハイマー
 福岡のヒストリー・テラーぶりの一端である。
《ニホンが太平洋戦争にまさに突入せんとしていた頃〔1933年〕、ユダヤ人科学者シェーンハイマー〔1898~1941〕はナチス・ドイツから逃れて米国に亡命した。英語はあまり得意ではなかったが、どうにかニューヨークのコロンビア大学に研究者としての職を得た。
 彼は、当時ちょうど手に入れることができたアイソトープ(同位体)を使って、アミノ酸に標識をつけた。そして、これをマウスに三日間食べさせてみた。アイソトープ標識は分子の行方をトレースするのに好都合な目印になるのである。
 アミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、燃えカスは呼吸や尿となって速やかに排泄されるだろうと彼は予想した。結果は予想を鮮やかに裏切っていた。
 標識アミノ酸は瞬く間にマウスの全身に散らばり、その半分以上が、脳、筋肉、消化管、肝臓、脾臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となっていたのである。そして、三日の間、マウスの体重は増えていなかった。
 これはいったい何を意味しているのか。マウスの身体を構成しているタンパク質は、三日間のうちに、食事由来のアミノ酸に置き換えられ、その分、身体を構成していたタンパク質は捨てられていたことである。
 標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムのなかにあるという画期的な大発見がこのときなされていたのである。》(『動的平衡』)229~30
 生物を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられる。身体のあらゆる組織や細胞の中身はつねに作り変えられ、更新され続けている。だから、わたしたちの身体は分子的な実体としては、数ヵ月前の自分とはまったく別ものになっている。環境はわたしたちの外部ではなく、常にわたしたちの身体を通り抜けているのだ。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。身体は分子の「入れ物」ではない。「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているに過ぎないからだ。ここにあるのは「流れ」そのものでしかない。この流れ自体が「生きている」ということで、これをシェーンハイマーは「動的状態」(dynamic state)と呼んだ。
 これは「二〇世紀最大の科学的発見」と呼ぶことができる、と福岡が書く。分子レベルの解像度(resolution)を維持しながら、機械的生命観に対してコペルニクス的回転〔パラダイム・シフト〕をもたらす仕事である、と。だが、直後、遺伝物質=核酸(1944年、エイブリー)や、複製メカニズムを内包する二重ラセン構造(1953年、ワトソンとクリック)の発見と続く、分子生物学時代の幕が切って落とされる。生物=分子機械論の大潮流が生まれたのだ。そして、シェーンハイマーは、一九四一年、自死する。
 (3)動的平衡のシステム
 福岡は、シェーンハイマーの分子生物学上の成果を再評価し、その生命概念=「動的状態」を拡張して、「動的平衡」(dynamic equilibrium)と読み替える。
《環境にあるすべての分子は、私たち生命体のなかを通り抜け、また環境へと戻る大循環のなかにあり、どの局面をとっても、そこには動的平衡を保ったネットワークが存在すると考えられるからである。
 動的平衡にあるネットワークの一部を切り取って他の部分と入れ替えたり、局所的な加速を行うことは、一見、効率を高めているように見えて、結局は動的平衡に負荷を与え、流れを乱すことに帰結する。》234~35
 福岡は、「動的平衡」としての生命を機械論的に操作する営為の不可能性を訴え、遺伝子組み換え技術や臓器移植、とりわけES細胞を使った延命医療などに、消極的意見を披瀝し、警鐘を発する。動的平衡システムの錯乱因子であるとしてだ。
 二つのことで、共感したい。
 一、実体論的機械論に対し、関係論的システム論である。二、たんなるホーリズムではなく、分子(粒子)次元まで還元可能とする「科学」の信奉者である。この二つのことは矛盾しない。
 だが「動的平衡」という概念にとらわれ(すぎ)ると、構造=非構造(主義)であることを無視し、第七部「技術の哲学」で見るように、分子工学と分子生物学の相関システムで組みあげられる、人間機械論の「効果」(effect)や「進化」を軽視することに終わらないだろうか?
 *福岡伸一 1959.9.29~ 東京生まれ 1982年京大(農・食品工学)卒、87年同大学院了、88(~91)年ロックフェラー大、ハーバード大ポストドク・フェロー、91年京大講師、94年同助教授、04年青山学院教授(生命科学) 『もう牛を食べても安心か』(2004)『生物と無生物のあいだ』(2007)『動的平衡』(2009)『動的平衡2』(2011)『やわらかな生命』(2013) 対談集『せいめいのはなし』(2012)