読書日々 960

◆191115 読書日々 960
「降る雪や……」
 雪が積もった。根雪ではないし、除雪を必要とするほどでもないが、白い積雪だ。エッ積雪はつねに白いって? そんなことはない。札幌でも、大阪でも、黒い雪をしばしば見た。
 1 一面が真っ白になると、いつも思い出す歌詞がある。二つだ。
 「雪が降る、あなたは来ない。……」で、アダモ(仏 作曲)が唄ったシャンソンで、わたしが知っているのは安井かずみ作詩で越路吹雪が歌い、大ヒットソングになった。高英男も歌ったかな。
 もう一つは「降る雪や明治は遠くなりにけり」で、中村草田男の俳句だ。草田男(1901~83)は、子規と同じように伊予は松山育ちで、虚子の弟子(子規の孫弟子)になり、子規と同じように東京帝大国文科(独文から転科)を出て(1933)、卒論は子規論であったが、この歌を発表したのが昭和六年(1931)だ。学生時代の句とはいえ、30歳を超えている。以上、誰でも知っているようなことを書くが、そうでもない。
 明治(末)からわずか20年の作品といわれる。だが東京(江戸・明治に連続する)は関東大震災(1923)で「焼失」したのだから、東京っ子にとって、「明治」からわずか10年に満たないといってもいい。これを逆のほうから見れば、ド田舎(水田地帯)に生れたわたしにとって、明治は敗戦を挟んで昭和30年代まで続いていた。ほぼ100年である。日本列島は長いだけではない。都心のすぐそばに「明治」はバブル期まで残っていた、といっていい。
 それに「年数」で時代の推移を測るのは、かなりの単純思考だ。
 「高度経済成長期」といわれる1960年代、時代は希望であふれていたかのようなセピア色のエレジーが語られるが、60年代全般を「学生」として大阪で暮らしたわたしにとって、少しも輝かしい時代ではなかった。未来は明るくなかった。草田男の学生時代も、世界を巻き込んだ不景気(恐慌)で卒業後のあてもない暗澹たる時代だった(と思える。ただしこの句ができた31年に満州事変が起き、景気上昇に向かうのだが。)
 そうそう、60年代、東京オリンピックがあった。たしかに「虹の祭典」であった。が、東京も大阪も、夏になれば水不足と炎天下、秋には暴風雨で風水害、冬は暖房が暖房費がなく、誰彼となく全身がかじかんでいたんじゃなかったか。ニーチェじゃないが、「現代」(現在)はすべて「最悪」だというセリフがぴったりする。
 2 愚知ではないが、忘れっぽくなったというより、「誤認」が多くなった。
 先週、夏目漱石全集(角川版)を買ったのは、(岩波版より)安価だったことと吉田精一が解説を書いていたからだ、と記した。最初、全集解説は伊藤整だと思っていた。が、全集を開くと(全15+別巻)のまず第8を再読しだして、吉田精一になっている。あれ、そうかと思い、吉田『現代評論』を思いだし、受験時代に読んだと思い、それを書いたが、これも決定版とはいえないが(なぜなら吉田は再編・再録が本が多い)たしか大学生時代に読んだのだった。そして漱石全集第1巻を開くと、伊藤整のまことに素っ気ない解説にであった。この伝だと、書いては訂正を余儀なくされる仕儀になるおそれがある。まずいというより、情けないことしきりだ。
 3 夜、TVを前に独酌していて、加藤先生(女房の父)のことを思い出すことがある。49で亡くなったのだから、漱石と同じだ。義父は中学の先生(地理)で、一升瓶とあだ名されるほどの酒飲みだった。ただし酒豪であったかどうかは分からない。一度だけ、狸小路のサッポロビール直営店で呑んだが、あっさりしたものだったという記憶がある。
 わたしの家は、祖父も父も一滴も呑めない体質だった。戦前は酒造業もしており、戦後も酒屋でもあったのに、わたしは20歳になってから酒を飲み始め、酒は好きだが、飲むほどの金がなかった。札幌に戻って、ようやく給料が上がり、多少は飲めるようになったがすでに45を過ぎていた。それからは、なにをしていても最後には飲んできた。いまに及んでいる。
 酒の筋は、曽祖父か、母の実家に由来するらしい。祖母の実家も酒飲みは少ない。しかし、家族や親戚筋と付き合うのが苦手というか、面倒くさく、自然と酒を飲む機会もなかった。義父だけは短い期間であったが、特例である。「降る雪や今夜も酒が恋しけり」なんてね。