◆240705 読書日々 1650 25年後のシンセン
1 今朝も暑い。陽射しは真夏である。それでも、東京や大阪の比ではない。窓を開けると、涼しい風が入ってくる。じゃあ、気分はいいか、というと、そうはゆかない。陽射しが強すぎるのだ。密室状態に、カーテンを閉じても、光が強引に差し込んでくるからだ。それでも、冷房なしで1日を過ごせるのだから、わが愛郷に、乾杯、ということになる。そうそう、ビールがことのほか美味い。おのずと、飲み過ぎる。もうとっくのとうに、一生分の酒量=背負い水は飲み干しているはずだ。
曽祖父は酒飲みだったが、祖父も父も、一滴も飲まなかった。私は20歳直後、ビール2本飲んで、船酔いもあったが、まったく酔えなかった。母の実家の叔父たちは、みな酒をたしなんだようだ。もっとも、相席で飲むことは稀だった。生意気な私を警戒してのことらしい。
妻の父は酒豪だったが、親しくなる頃は、酒も弱くなっていて、48歳で亡くなった。結婚式を挙げる前であった。先生(中学時代の地理の教師)と飲めなかったことは残念至極であった。
おそらく、親類中で、現存(?)している最高齢に達したと思えるが、私の晩節は○×、判然としない。ま、当然だが。
2 いつも一仕事終えると、一瞬間、空白状態になる。そしてニューズがとても気になる。チャイナ経済のバブルがはじけ、数年になる。そのまがまがしいドキュメントが突然のように、出現する。昨日、経済特区で1990年代から異常発展、膨張を遂げたシンセンの「破綻」が映し出された。
私の本がはじめて売れたのは、1988年末出版された『ある地方博の死』(亜璃西書房)だ。札幌発の本だったが、取材は社長の和田由美がやってくれ、1週間で書きあげた。それが予想外に売れた。そのご褒美ということで、社員一同(+α)とともに、初めての外国(香港)旅行に招待された。まだ、返還前の香港だったが、香港を半円で取り囲むシンセンの膨張は、注目してきた。人口2000万、そのシンセンがリストラを余儀なくされている。すざましい。もっとも他人事でこれをいうのではない。かっての香港は、一歩裏に入るとゴミの山(魔窟)だった。ただし、シンセンは文字どおり、まずゴミにして、焼却するという様相だ。これがチャイナ式のリストラだ。
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読書日々 1649 トイレ本の昨今
◆240628 読書日々 1649 トイレ本の昨今
朝からあまりパッとした話題ではないが、トイレ本のことだ。ただし、わたしにとってはとても大事な案件である。「馬上、枕上、厠上」という。読書に好適な3条件だ。30代、関西各地の大学で非常勤講師を務めた。はじめは、定職がなかったからだが、定職についても、給与は低かったので、非常勤講師をやめるわけにいかなかった。
それで、「馬上」ならぬ「電車上」が、私の最大の読書空間となった。月から土まで、通勤時間が4~5×6=X時が、読書に専念出来るからだ。およそ13年、あれも読み、これを読むことが出来たのも、通勤電車の「おかげ」であった。
この建造物、築40年になる。長沼に居を移し、2016年に生家跡に建ったこの建物の、この部屋に「戻って」(?)きた。長沼は、バラックで、冬は寒い。トイレが特に厳しい。長居は出来ない。それに暗い。トイレ本で、難儀した。それで、この部屋では、トイレに明るい電灯と、本を置く台をセットして貰った。最適の読書空間になったように思える。
2016年、念願の『日本人の哲学』(全5巻・全10部)を上梓し、再びミステリー耽読に身を寄せた。ほとんど枕上ならぬ、寝そべる読が厠上読に次いだ。馬上はゼロ。おかげで、腰を痛めた。眼を痛め、指が麻痺すると、パソコン操作が辛いというか、むつかしくなる。でれでも、筆や、万年筆、鉛筆で書くよりずっと楽だ。
そのトイレ本の「現在」は、7冊、①山村正夫(1931~1999)『推理文壇戦後史 Ⅰ』(双葉文庫)。楽屋落ちの話しがほとんどで、ひまつぶしにはもってこい。ミステリ作家には、奇態な人が多い。作品よりも本人が「ミステリ」の過半を占める。私は『日本ミステリ事典』を手元に置いて、ときどきの作家の作品に注目しているが、ただ『盤上の向日葵』(中公新社 1917)の柚月裕子になると、作品も本人も、お手上げ。ま、グーグルを引けば、OKなのだが。でもやはり、新保博久監修の註にあたりたいね。
②倉橋由美子『大人にための残酷物語』(中公文庫)、③鮎川哲也編鉄道ミステリー傑作編『急行出雲』(光文社 1985)、④同編『見えない機関車』(光文社 1986)、⑤『水木しげるの「雨月物語」』(河出書房新社)、⑥宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波書店 現代同時代ライブラリ 1996)である。全部、贔屓の作家だ。何度でも読む。すぐ忘れるが。
読書日々 1648 夏の入り口かな? 自作を読む?
◆240621 読書日々 1648 夏の入り口かな? 自作を読む?
1 わたし的にいえば、この季節=期間が、最も北海道らしい、と思える。ま、好きだ。1つは、湿度が高くなりはじめるからだ。生来の乾燥(敏感?)肌で、最も恐れたのは、知らず知らずに、肌をかくことだ。もちろん、恐れたのは「漆」蔓をはじめとする野草木だった。漆塗りの箸でかぶれて、一月余り白い塗り薬と包帯まみれになって、夏を過ごしたことを今も忘れない。長沼町の僻村に30年余り居を構えたが、なによりも恐ろしかったのは、野草だった。そうそう、桑の木もあったっけ。
10数年、聖地巡礼の旅に伴って、欧州各地(ポーランドからスペイン・ポルトガルまで)を訪ねたが、ポルトガルで「被れ」その後遺症=乾燥肌に、今も苦しめられている。(ま、脳の中まで、痒くなるので、手の施しようがない部分もあるが。)だが、夏が来ると、大いに汗をかくので、慈雨ともいうべき汗肌到来。今が、その変わり目で、……。そういえば、高温多湿の関西生活23年、被れを忘れていたかのように過ごしていたのではなかったか? エッ、忘れただけなのかな?
2 この「日記」は、どんどん、「自分」だけに向かって書いているような気がしている。「読書」日記と銘打っているが、新しい本に手が伸びることは少なく、「旧著再読」に近くなっている。TVで、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にまつわる内容のものをやっていたが、村上春樹に促され読んだし、サリンジャーをネタに「雑文」を書いたことは覚えているが、内容はきれいさっぱり忘れてしまったというか、他の作品との境目が霞んでしまっている。そういえば、あんなにも熱中した春樹の作品も、「おぼろ」という状態になっている。(エッ、忘れたいのか?)
この日記も、今日から、分量を半分にして、800字で行くことにする。といっても、すでに実質は、ずっと800字で、旧稿雑文を併載してきたのだったが。
昨日、新稿『藤原不比等と紫式部 日本国家創建と世界文学成立』((言視舎)の初校ゲラを出版社に送付した。作者自身は、自分の作品を最も多く読む。普通3校、ときに2校で、創作中は、何度自分の書いたものを読み返すか。そして、忘れてしまう。というか、「忘れたい」と思えるほど、次作を多読する。
読書日々 1647 梅香空木の蕾が開く
◆240614 読書日々 1647 梅香空木の蕾が開く
今日も暑い。
1 昨年の日記の「引用」からはじまる。この日記は、『文化手帳』(潮出版)とともに、防備録の役目も果たしている。
《230624 読書日々 1148 梅花空木と中山正善
好天が続く。花が咲いた。ベランダの前庭に、突然にだ。風情が、鉢植えとはまた違う。
1 そういえば、コロナがはじまる前ではなかったろうか? 雑草に蔽われていたところを鎌で少しく刈り取ったときだった。規子さんが、苗木を植えてくれた。冬は厚い雪の下になる。押しつぶされないように、竹で支え囲いをあつらえてくれた。しかし、半年が過ぎ、雪が融け、春になっても、なんの兆候もない。草木に蔽われたままで、せいぜいまわりを刈り取るていどで、すっかり「花」の行方は念頭から去っていた。
ところが3年目である。規子さんが花株2鉢を、ベランダに置いてくれた。蕾が、水をたっぷり注ぐと、数日で満開になった。窓越しであった。うっとりして眺め回していたその赤と黄色の花々の先に、長く葉を開いた蕗をはじめとする草草のなかに、白い蕾の群が窺えるではないか。花の名は忘れているが、雪に押しつぶされ消えてしまった花の名残に違いないと思い、鎌をひさしぶりに握って「庭」に向い、まわりの伸びきった草草を乱暴に刈り取る。と、白い蕾を沢山付けた、枝を伸ばした草木が姿を現わしたではないか。
強い陽射しを浴び、数日すると満々たる白い花を咲かせたではないか。名前を改めて質した。「バイカウツギ」、アジサイ科バイカウツギ属の植物の一種。別名サツマウツギ。 和名の由来はウメに似た花を咲かせることから、「梅花」の名がある。ウツギは、「空木」。目の前にある草木は、丈はおよそ80センチ、30以上の満開の白い花を咲かせている。》
2 今年も規子さんが、思い切ったように、まわりの草草を刈り取ると、高さは変わらないが横にぐんと張った「空木」が姿を見せた。6月の初めで、蕾も現れていなかった。でも、今年は「暑さ」の進行が直線的で、一週間を過ぎた一昨日、ベランダからも、1つだけだが蕾が大きくなり、先端が白く見える(ただし私の視力だから?)。蕾は多すぎて数え切れない。今日も暑いから、パッと開き切るのでは、と期待しているが、……
3 新著『藤原不比等と紫式部』のゲラが出はじめた。
関西方面に長く暮らしてきた。京、大和・奈良、大阪・神戸、それに三重、紀州等々の各地に、まだモータライゼーションが進行する以前、そして古都・名所巡りが盛んでなかった頃から、足繁く通った。金はなかったが、暇だけはあった。単独行だったが、少しだけ、古道・旧所等の地誌的「雰囲気」を体で覚えた。
山科は旧都大津(天智が開いた)と背中合わせであり、大和川は大和と難波を繋ぐ「水道」であり、太宰府と瀬戸内海を通って大和へとつながる国際的なバイパス(シルクロードのターミナルステーション)であった、だから「難波」とは、現在の「大阪」(上町台地の北端)というより、上町台地の南端=「難波」、「堺」にずっと近い地域だった、ということになる。その難波と飛鳥の大和川上の中継基地が安宿(あすかべ)で、そこに盤踞したのが、田辺史(藤原史の庇護者)であり、また義父の蘇我大隅一族であった。
それに飛鳥は、土地自体が狭く、しかも湿地帯で、大小の豪族たちが「盤踞」するのには都合がいい。だが、この飛鳥(南都)をどうやって「脱出」するか、飛鳥から「平城」や「平安」へと政都をかえ、大和→日本への転換を図る政治経済文化的要求が、古代史の中心にあった。今度の新著は、そんな地理体験が基底にあるのだという感覚を込めることができれば、……。
読書日々 1646 KIYOさんからのメール
◆240607 読書日々 1646 KIYOさんからのメール
1 先々週、1回、この読書日々を欠落。すかさず(?)、KIYOさんからメールがあった。KOYATAは生きているのか? という文意だった。キヨさんこそ「死んだ?」のではと思う長い日々があって、逆に、ほっとさせられた。また、会える日があれば、と思えるが、わたしの方は完全に出不精になっている。外に出るのは、外気を吸いに戸外に数分出で、背伸びをするか、3~4日に1度、タバコを買いに、近所のコンビニ(2~3軒)に出向くときだけである。ま、歩くのも、1000歩前後、それでも自歩だ。が、見る人によっては、ヨレヨレかもしれない。正直、一種の死に損ないだろう。それに、自分ながらにあらがいたいこともあって、可能なかぎり、パソコンに向い、ぽつりぽつりと、次は何を書くのか、という思いに駆られているに過ぎない。ま、生き損ないというのが、正直な思いだ。
2 それにしても長く生きてきたものだ。曽祖父の彌左衞門、祖父の彌太郎、父金彌たちより長生きしている。姉二人、妹一人は、健在だが、父の兄弟姉妹、母の兄弟姉妹は、それぞれ8人だったが、すでに昨年末、最後の一人が鬼籍に入った。イトコが100人ほどいるが、存命なのは、少数になったいる(はずだ)。
もともと体だけは頑丈だったのか、大病に出会ったことはなかった。入院したのは、痔の手術の1回だけで、スペインのコンポステラに巡礼したとき、訳の分らない皮膚病に罹って、半年以上痒さに襲われ、脳内まで痒かったときも、なんとか切り抜けることが出来た。というか、書くのをやめなかった。「疾病」はそれくらいだが、その後遺症は20数年経っても、残っている。
でも、飲むのはやめていない。70で定年になり、すすきのに出ることもなくなった。出ても、2軒、やっと残った店に足を向けるだけで、全部、家のみ(部屋)飲みで、朝は、妻のデリバティブ、夜だけは、妻と食事だ。ときに、ビール1缶、あるいは清酒を少々をともにするだけ。
3 妻の父は、中学時代の先生で、48歳、漱石と同じ年でなくなった。先生、一升瓶という渾名があったほどの酒豪というのではなく酒好きだったが、ことのほか私をかわいがってくれた。
私の先生に、3人いる。加藤(義父)と相原信作(大学)、谷沢永一先生で、谷沢先生の年もすでに越してしまった。
最近、時代劇チャンネルで、『花神』の総集編を見た。この番組は、半世紀前、上野市の伊賀神戸で見て、興奮したが、村田蔵六の酒の飲み方まで真似る始末で、このころから酒所、伊賀の清酒を買って飲める「余裕」が出来たのではなかったろうか? といっても、津市立三重短大(法哲学)にはじめて定職を得たときで、給料が猛烈に安く、週4日、大阪に出て非常勤講師で稼ぐほかなく、家庭教師も辞めるわけにはいかなかった。それでも、3年目に書庫・書斎を新築して貰い、私の量産時代が始まった。そうそう、万年筆にこり出した時で、手作りの万年筆を金沢や仙台に特注し、原稿用紙を埋めていった。また、目次と概要は、筆であたうるかぎり詳しく書いて、準備を整えた。その作法は、ワープロ・パソコン時代に大きな力になった。
私のぼやきは、朝は朝星、夜は夜星、昼は梅干し嘗めながら、で、朝6時始発、夜12時終着、「なんだ坂・こんな坂」の毎日だった。
4 8年間、壺中の天、三重に腰を落ち着けると思いきや、飯島宗享先生が手を回してくれたのか、札幌大に職を得て、家郷に戻ってきた。三重短も、札幌大も、20倍以上の競争率だった。もっとも、受ける本人にとっては、合否は、つねに2倍ではあったが。ただし、三重短は友人の引きがあった。彼・岩本さんの力がなかったら、私の教師・文筆生活はなかったと思える。
何か、また湿っぽい話になったが、今日は谷川俊太郎さんのフェルメール鑑賞という素敵・的確なコメントの「再録」番組があって、再再度納得させられた。