カテゴリー別アーカイブ: 読書日日

読書日々 1657 愚知の極み

◆240809 読書日々 1657 愚知の極み
 1 パリオリンピックが開かれている。ジジイの生活習慣が、一気に崩れたが、やはり面白いのは、陸上競技、それもトラック種目だ。長・中・短を問わず、スピードを競う頭脳競技だ。チームプレーよりも個人の力がより試される。しかし、速い者が勝つ、というわけではない。といっても、確率でいうと、やはり「走力」がものをいう。
 物書きになって、特に、団体競技よりも、より一層、個人競技に惹かれるようになった。私自身のバイオリズムからいうと、長編のいわば三部作というべきものがあって、その中間に、1月に1~3冊というような単行本が挟まり、新聞雑誌の連載が週に1~2本あるという状態が、定年70歳まで続いた。自分で言うのもおこがましいが、膨大な「著作」(?)群だ。傍目から見ると、あきらかに書き散らした、と思える。
 2 しかし、思うに、書かしてくれる人、出版社・編集者があっての物書きの世界である。出版社も「商売」だから、売れなければノーサンキューである。売れる本が「良書」というわけだ。それに編集者も、出版社の「都合」次第だ。
 三一書房の林さんに、企画を出し、『昭和思想史60年』『吉本隆明論』『天皇論』の三部作が出た。前2作は、いわゆる枕本だ。そしてphpの阿達さんにあったのが、運のつき始めであった。次いで、背戸さんに『現代思想』(潮出版)をだしてもらい、『人生の哲学』(海竜社)という中期の代表作(?)を書き下ろしできた。
 退職(70歳)から年来の願望、『日本人の哲学』(全10部=5巻)に集中し、それでも、76歳から、『諭吉の事件簿』(全3冊)、さらに懲りずに『三宅雪嶺 異例の哲学』を、言視舎の杉山さんに出してもらった。
 そして、80をすぎても、まだ書いている。もう1冊、もう1冊というふうに、毎年過ごしているが、やはりもう1冊出したいテーマがある。「蛇足」と言われるかもしれないが、『蒙古襲来』前後の、国難と進化が主題だ。どうなるやら。じつに欲張りだ。そう思える。愚知の極みだ。

読書日々 1655 「折々の……」(朝日新聞)

◆240802 読書日々 1655 「折々の……」(朝日新聞)
 「折々のことば」(鷲田清一)は、最近、つとに好調だ。この「コラム」、1979年の大岡信「折々のことば」以来の愛読者だが、新聞を開いて、最初に目がゆく。ときに切り抜く。
 「みんなが正しいといい始めたら、一回はそれを疑ってみること。一度だけでいいから左を見てみること。」(永田和宏) 8/2の「ことば」だ。まことに穏当で、正しい。
 聴講する学生や私自身のこどもに向かっては、私もそうしてきた。しかし、自分自身に対しては、多少とも「考えることをこととする者」として、わたしは、つねにとはいいかねるが、「みんなが正しい」と言い始めたら、「反対する。してきた。しなければならない」を性癖としてきた。
 この性癖は、多分、幼少期以来のもので、関西に行って、谷沢永一や司馬遼太郎の作品を読むようになって、さらに強まった、否、固まったように思える。思い出すたびに、自責の念に駆られることがある。
 父母が郷里さっぽろからやってきて、紀州の南端、勝浦温泉に向かう途中であった。
 政治好きの父は、政治談義が好きだった。自民党の強固な支持者で、選挙違反で拘留された体験さえ、自慢の種とする開けっぴろげの人間だった。「アカ」のやることはとんでもない。許せない。」ストや大学闘争で旅情を壊された、父の愚知であったと思える。
 だが共産主義者と自認していたが、わたしにとって、「アカ」ということばは許せなかった。反射的に、父に向かって「列車を降りろ!」といっていた。それ以来、父はわたしに向かって、政治むきのことを語らなくなった。ただし、「列車を降りろ!」には、私自身が一番びっくりした。
 わたしは、自身を平凡な民主主義者と思っているが、それでも、スピノザの影響もあって、「偏屈」な民主主義者となった。ますますその性癖は強まっているのではないだろうか。
 それに、多数派になるな、多数派をめざすな、と自分を戒めてきたが、ときに、否、ときどき、多数派になることがあった。そんなときほど、座り心地が悪かった。会議には出席せず、自ずと委員名が消えるのを待った。

読書日々 1654 『天上の青』

◆240726 読書日々 1654 『天上の青の』
 1 毎日、朝顔が1~2輪、花を広げる。青紫の大輪だ。
 曾野綾子さんに『天上の青』(1990 毎日新聞)という傑作がある。朝顔が開くと、いつも曾野さんの「犯罪」と「信仰」の狭間を揺れ動く振動音が聞こえてくるように思える。その狭間は、左右に分かれているのではなく、重奏態としてある、と思えた。主人公(女)の背後を未知の男(殺人犯)が素通りするだけで、強い「気脈」(電流)が生まれるという風なのだ。
 こういう表現を使ったら誤解を生むかもしれないが、スーシエ演じるところのポアロが、未知の相手にすれ違うだけで、得体の知れない異常な「電流」を感じ取ることができる、という具合の気脈に似ている。曾野さんお得意の「勘」か?
 じゃあ、朝顔は十分に不吉なのか? 間違いない。でもおぞましいほどに美しい。だがはかない。(ま、そんなに真剣に対峙しているわけではないが。)
 2 毎日、旧稿を開いて、「校正」している。これが「仕事」とかというと、そう言うほかない。
 76歳で、『日本人の哲学』を書き終え、車を捨てて、厚別の生家跡にに戻ってきた。
 時間が許せば、最終的に書きたいと思ってきた、福沢諭吉論と三宅雪嶺論も書き切り、その間に、山本七平論も書いてしまい、……、他にやることがないので、「読書日々」を書き続けている。これは、つい最近、1600字から800字に縮めたが。
 3 厚別では、誰とも会わないように暮らしている。2月に1度、床屋に行き、4日に1回、ピースのライトを近くのコンビニに買いにゆく。2軒、交互にだ。わたしが入店すると、定員は、注文を確認せずに、ピースの置き場に進む。
 本は、相変わらず、裸眼でなら読むのにふじゅうはない。それぞれ面白いが、そのときだけだ。「書く」ために読むのと、「読む」ために読むのとでは、全く違ったことだと見なしてきたが、いまでは、たいした差はない。書こうと思うのは「厚別遠景」だが、バンバン書けるようで、そうもいかない。

読書日々 1652 「テンチャン」・「パンパン」 

◆240719 読書日々 1652 「テンチャン」・「パンパン」
 夜、寝苦しくなった。ま、北海道にも、真夏が近づいたということか。
 1 『福沢諭吉の事件簿』(全3 言視舎)を書いたとき、わたしとしては例外中の例外だが、かなり、東京や上州各地を「取材」(?)して歩いた。夏は極端に暑く、冬は寒風が吹き荒れた。ま、短期間だったから、それに「仕事」だから、むしろ楽しみだった。ただし、田舎であろうと都会であろうと、人間に取材するのは苦手で、うんざりした、否、させた記憶がある。私には、地図と時刻表と、気車があっていると思える。ま、いまじゃ、裸眼でようやくたどれるていどだから、これもだめか。
 暑いというが、北海道は、快適に近い。気温は高いが、涼風が吹いている。暑い! と言われるかたは、どうぞ、北海道に移住したらいかがですか? こう言ってみたくなるが、「暑い」からいいのだ、という返事が返ってきそうだ。そう、そう、ローマも、パリも、ベニスも、総じてヨーロッパも、USAも、真夏は、日本と比較して遙かに暑かった。もう行きたくないか、と聞かれると、タダでも行きたくないね、と答えてしまいそう。それでも、地中海を東に向かって、もう一度イスラエルには渡ってみたい気がする。
 2 鮎川哲也『ペトロフ事件』(講談社)の文庫版を取り出して、机の上においたのは、2週間まえだ。すでに3度ほど読んだが、打ちのめされた感しか残っていない。といっても、この処女作、面白いのだ。満州の鉄道ミステリの傑作なのは、間違いない。ただし、わたしがその傑作のゆえを語れないのだ。正確には、「解説」の山前謙さんの手引きなしには、ミステリの面白さを味わえないように思えるのだ。これは、評論家を名乗る私としては、「低能」の極みである。ま、だから、何度よんでも、面白い、という理由でもある、と納得してきたが、残念至極の感は残る。83歳の切歯扼腕というところだ。
 3 日本の「国難」は、白村江の戦い、蒙古襲来、朝鮮討伐、尊皇攘夷、等々をあげることができるが、大東亜戦争で完膚なきまで敗退し、わたしたちは、幼少時、中途半端なアプレゲールにならざるを得なかった。ただし、その低劣だが、的確な標語は、「テンチャン」と「パンパン」で、坂口安吾の「墜ちる」のは、「人間」だから、というテーゼだった。鮎川の作品の根底にあるテーゼでもある。

読書日々 1651 朝顔の鉢が見事な花をつけたよ

◆240712 読書日々 1651 朝顔の鉢が見事な花をつけたよ
 咲き乱れていた空木梅花が残すところ2つぼみとなったところで、朝顔の鉢に白青の見事な花が咲いた。本物の夏到来である。といっても、ここは涼しいが。細い空気の流れが足下を通る。
 『藤原不比等と紫式部』の校正を終え、ほっとしているが、何か落ち着かない。一番の理由は、使い慣れたパソコンの変換が、一向にスムースにゆかないからだ。ほおり出したくなる。
 何度も何度も変換に苦労したことがあったが、何せ『大学教授になる方法』からパソコンを使い出し、もう40年以上たつ。ただし、吉本隆明論を書いたときから、部分的に、パソコンで打ち始めた。吉本の文章が、すらすらと変換されてゆくのに驚いた。あの癖があると思われている文体(?)がである。
 当時、「月間鷲田小彌太」とヤユされた。それまでは、万年筆にこっていて、作家気取りといえば大げさだが、自筆にこだわっていた。パソコンで原稿を書くなんて、「作家」の面汚しだ、などと編集者などが真顔で語っていたときだ。すぐに、パソコン原稿でないと受け付けない、などという編集者が大半となった。
 生涯自筆で書いた吉本の文章が、パソコンの「変換」向きだなんて、私の秘密にしてきたが、本当である。そう言えば、わたしが自筆で書いた最初の「評論」は、吉本隆明批判であった。それが、すぐに吉本の作品ばかりを読む羽目になり、分厚い吉本隆明論を書いて、「評論家」(?)の仲間入りを果たすことになり、直後に『大学教授になる方法』を出すことができた。それから30年余である。茫々というか、頭の方が茫々になったというべきだろう。
 小中学時代、出席簿は、生年月日(の早い)順であった。わたしと同じ日に生まれた佐々木君とわたしが、9年間、同じ順だった。そう言えば、吉永小百合も誕生日が同じだった。それで思い起こす。映画に関する討論会で、「吉永小百合は男だ」と発言し、映画評論家の顰蹙を買ったことがある。35年前のことだった。理由はあるが、原節子と吉永小百合は、スクーリンでは「永遠の処女」である、そうな。原は、「処女作」からりっぱな女性だったが、比べると、吉永は「男性」だった。どんどん男性になっていった。