カテゴリー別アーカイブ: 著書

日本人の哲学 名言100(言視舎)

『日本人の哲学 名言100』の読者に!

 雌伏(大げさ!?)10年、ようやく『日本人の哲学』全5巻(2012~17)を仕上げることができた。そのうえに本書、日本人の哲学(書)の名言・箴言集(とその解説)であり、要綱であるべきものを出すことが出来た。こんなありがたいことはない。
 『日本人の哲学』は厚い。それに5巻10部だ。多岐にわたる。一見して難解そうに見える。全くそんなことはないのだ。といっても、重さだけでも尋常ではない。でも、手に取って読んでみてほしい。著者として切実に思う。その「入り口」とでもいうべきものが本書だ。発行元・編集長の杉山尚次さんから、凝縮形の名言集をという注文を受けた。まことに幸運であった。
 5巻のエキスである。バライティに富んでいる。哲学を、「大学哲学〔スコラ〕」=「純哲」の狭い・硬い殻に閉じもめたままにせず、その全体イメージを変えることを意識して書いた。
 『日本人の哲学』を書き上げて、さらに本書をまとめてみて、あらためて、哲学は「言葉」であり、「人間」は言葉の集約点、別言すれば、「関係性の絶対」のなかにあることを痛感した。もっといえば「万般を愛する知」=「雑知愛=「雑哲」なのだ。本書はその見本でありエキスだ。
 わたしは「哲学は万能である」などとは考えない。だが、哲学は「万般に通じる」性能をもっている、ということを疑わない。もちろん一本道ではない。哲学こそ万般の道を内包している、否、内包しなければならない、複雑で柔軟な思考と考えている。その見本を本書で垣間見せることができれば幸いだ。
 その上でお願いしたい。余裕があれば、ぜひ「本編」全5巻を開かれんことを。あなたの知情意全般に通じる血流が活性化することをお約束できる。(2017/7/28)

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生きる力を引き出す「超・倫理学講義」(言視舎)

生きる力を引き出す「超・倫理学講義」(言視舎)

倫理学講義といいながら、議論のほとんどは、経済(資本主義)と政治(デモクラシー)に集中することになった、という感想を抱かれるかもしれない。実際、倫理学の伝統的なテーマを、ほとんどすっとばしてしまった、といわれても仕方がないだろう。ただし「倫理学」とは、伝統的に、政治・経済を包括する人間・社会の総合学(humanity)であった。孔子の『論語』、プラトンの『国家』、アリストテレスの『倫理』、スピノザの『エチカ』、ヘーゲルの『法哲学』、みなそうだ。
 しかし、意図してのことでもあった。
 政治と経済を、倫理という学の枠組みでつかまえたら、どのような形と内容になるのか、ということが私の当初からの狙いである。しかも、この「学」は、専門の学special sciencesではなく、教養の学general sciencesである。だから、日本人なら、特別の前提や訓練なしに理解することが出来る叙述になっている。端的にいえば、最大限でも、高校までの知識で十分なのだ。しかし、だからといって、内容を低く抑えるなどということはしていない。しかも、クラシカルでホットな話題、つまりは、普遍的なテーマをとりあげたつもりだ。
 また、政治と経済といっても、専門知を要求するようなものを意味しているわけではない。政治を、支配に基づく人間と人間の関係、経済を、物質的生産と消費を介した人間と人間の関係、と言い換えたほうが分かりやすいだろう。だから、本講義で展開したのは、教養学の一環としての倫理学であり、さらに、政治と経済の倫理学ではなく、政治と経済を介した人間関係を、倫理学の枠組みでとらえ直す作業なのだ。(「あとがき」より)

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日本人の哲学4 自然の哲学/技術の哲学/人生の哲学(言視舎)

『日本人の哲学4 自然/技術/人生の哲学』(言視舎 2017.2.28)刊行!

 準備5年、執筆5年を費やし、75歳までに仕上げるというプラン、『日本人の哲学』(全5巻全10部)の刊行を終えることができた。消耗戦ではなかったから、「疲労困憊」といえば嘘になる。だが「高揚感」はあるものの、完全老人になった(感がする)。
 書き終えて思うのは、本書(5巻)は、文字どおり、わたしの仕事=研究・著述・読書・人生の歴史「総括」といっていい。これで、いつわたしの個人史が終わっても、「いい」、と確信できた。幸運である。
 1「哲学者列伝」、2「文芸の哲学」、3「政治/経済/歴史の哲学」、5「大学/雑知の哲学」、そして本巻4だ。総2600頁余になる。長大だ。一見、テーマ(書題)が重厚だ。難解に思われても無理はない。
 だがそんなことはない。愛知=雑知愛が「哲学」の生命源である。しかも評論である。各部分は短く、簡単明解を旨とした。読みやすい、と請け合っていい。是非とも手に取って、読んで戴きたい。重ねての幸運だ。
 『昭和思想史60年』(1986)が出たとき、銀座の(いまはなき)近藤書店で、拙著を手に取り、買う人がいるのを偶然見かけた。手を合わせたいおもいがした。昨年9月、浜松町の国際貿易センター内の書店に、『日本人の哲学』が3巻並んでいるのを目撃し、はっとした。
 書いた以上、売れて、読んでほしい。それがすべての著者の願いだ。叶うことがあれば、重ねての幸運である。どうぞ、皆さんの手に届きますように。

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谷沢永一二巻選集・下・精撰人間通(言視舎)

コラムニスト、谷沢永一のエキスがここにある!

 上巻「精撰文学研究」(浦西和彦編)に続いて、下「精撰人間通」をここにお贈りする。
 端的にいう。谷沢の文芸魂は、コラムのなかでもっとも冴えるのだ。
 谷沢の文壇デビュー作・書物コラム『書名のある紙礫』、死の直前まで二五年にわたって書き続けた時局コラム『巻末御免』、の精撰を前と後ろに置き、『歴史通』と谷沢版「忘れ得ぬ人々」(人物通)の精撰を挟んだ、まことに贅沢と呼ぶほかない谷沢精撰コラム集一巻をここにお届けする。(などと、手前味噌よろしく編(選)者が言うが、恥ずかしくない。)本書の構成(書物→歴史→人物→時局通)は、谷沢の著作順に準じたものになった。
 一九七七年、わたしが『読書人の立場』という谷沢先生の地味な本を手に取ったときから、今日まで、およそ四〇年、あっという間であったし、また長くもあった。それにしても、先生が東日本大震災の直前になくなってから五年余、遅きに失した感があるが、ようやくここに先生の遺志を体したと思える選集を出すことが出来た。ひとえに、多くの方に読んでほしいという念からだ。この選集をきっかけに、先生の文芸魂が、広くかつ深く、読者の胸に浸透し、さまざまな形で鋳直されていくことを願ってだ。
 浦西さんは、谷沢先生の直弟子(かつての学生で、関西大学教授となった)である。書誌学、とりわけプロレタリア文学の書誌研究で膨大な業績を残している、いまなお第一線の学者だ。私は、浦西さんと歳は同じで、出た大学も一つ丘を越えた隣どおしだが、谷沢先生とは、著書を通しての「弟子」関係である。自宅にお伺いしたのは一度だけで、ほとんどは東京で、編集者を挟み、仕事をかねてお会いするだけだった。それも年に一回程度である。わたしには、これが幸運だった。一緒に、それも仕事のお手伝いが出来る、これほど弟子にとっての幸運はあるまい。
 哲学=衒学、というのが先生の口癖で、わたしの前でもいうのをはばからなかった。でも、文学だって衒学に違いなく、いなかなりヤワな正体不明の衒学だ。先生はその衒学の「正体」を暴くことが好きだった。すぱっと切る、種も仕掛けもない、ただの幻じゃないか、こう啖呵を切るときのかっこよさ。これは格別だ。この人間通コラムは、『論語』や『徒然草』のような、持って回ったセリフはない。切って、三枚に下ろす、そんな手際だが、「余韻」がある。わたしなどが真似をしようものなら、噴飯物になる。先生は、鴎外も、そして漱石も嫌いだったろう。でもそんな鴎外が、嫌いだけではすまされないかったのである(と思える)。
 どうぞ、短いコラムの、鋭気と余韻を存分に味わって欲しい。値段はかなり高いが、持っていても、読んでも、自慢になる。(鷲田小彌太)

google検索:谷沢永一 二巻選集 下 精撰人間通

山本七平(言視舎)

9784865650512

ベンダサンと山本七平は別人である!

1 処女作にはすべてがある。
 すぐれた処女作は、どんなに作者から離れているように見えても、「自画像」である。
 吉本隆明 1924~2012 「マチウ書試論」
(1954 『芸術的抵抗と挫折』1959)=イエス(ジュジュ)はいつキリストになったか)
 小室直樹 1932~2010 『ソヴィエト帝国の崩壊』(1980)
 丸山真男 1914~1996 「超国家主義の論理と心理」
(1946 『現代政治の思想と行動』1964)
 司馬遼太郎 1923~1996 『梟の城』(1960)
 イザヤ・ペンダサン『日本人とユダヤ人』(1970)
 山本七平 1921~1991 『ある異常体験者の偏見』(1974)
 これら処女作のすべては、「いまだ何ものでもない」ものが「何ものか」になろうとして、「何ごとか」(something)を書き上げた成果である。しかも、「自伝」である。「立志伝」(a story of a self-made man)であり、「偉大なこと」(something great)をなし遂げる「端緒」である。と同時に、処女作には、作家が成就するもののすべての要素が含まれている、と断じてもいい。とりわけ山本がそうだった。その全作品は、「自分」(self made man)研究でもある。自分史を、暗黙裏のうちに、書く。これが山本の「立志」であった(と思える)。
2 日本と日本人の「履歴書」を書く。
 しかし山本(「現存在」)は、「自分」からもっとも遠いもの、比較対象化された、日本と日本人の「歴史」を書こうとする。端的にいえば「日本と日本人とはいかなるものか?」に、日本と日本人とは異なる対象と比較=相対させ、答えようとする。そうしてはじめて日本と日本人の「自画像」が書ける、とするのだ。従来の自画像に欠落したものを、民主主義(作法)と科学(作文)を、まったく異なった形で提示するに至る。
 山本七平は、民主主義と科学と平和の「敵対」者のごとく語られることがある。少なくない。保守反動という人がいる。多い。天皇主義者で、軍国主義の復活を願う人間だ、と指弾する人がいる。とんでもないことだ。すべて、一読しないでする、読んでも「自分とは違う」と感じることから生じる「幻像」(imago)だ。
 わたし(鷲田)自身の山本「像」は、七〇年代、八〇年代、九〇年代と変わらなかった。一読もなかった(?!)ので、「わたしとは違うな!」という幻像にとどまった。それが、二一世紀になるまで、山本の著作を本格的に読まなかった、結果である。
 わたしは仕事で(書くために)山本作品を読みはじめた。しかし、肝心なところを読み間違っていた。「ペンダサン=山本」としていたからだ。本書で訂正したい。できるなら、読者の皆さんにも、訂正してもらいたい。
 本書は「山本七平への旅」である。かなり長い。でもていねいに辿れば、遠くはない。
(「はじめに」)

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