カテゴリー別アーカイブ: 読書日日

読書日々 1167 「頭ボロボロ……」 

◆241016 読書日々 1167 「頭ボロボロ……」
 1 読書「週刊」なのに、「読書」の話が出てこないじゃないか、と思われる方がいるのではないだろうか。「そうだが、そうでもない。」まずこう言ってみよう。
 血圧は落ち着いているが、読書は、視力のこともあり、なかなかに苦戦している、といっていい。
 しかし、第1に、デジタル(拡大)で読むことが過半になった。資料的なものを読むのには都合がいい。実に楽だ。しかし「読書の楽しみ」(愉楽)は、ざんねんながら、半減する。
 活字本は、半分以上が厠上である。それに書きもの(writing)を始めると、自分が書いたものを「参照」するために読む。「いま」、白石と厚別⇒札幌と新さっぽろの「2都」物語を書く途次にある。それに、わたしが『日刊サッポロ』で10年余にわたって書いた「コラム」がたいそう役立つ。それらを集成した『大コラム 平成思潮』(下 言視舎 2018 520ページ)がたいそう役立っているのだ。
 コラムは、「時代の推移」を自分自身がどう捉えてきたかを、「再現する」手がかりをえることができる。これに、毎日・道新・朝日等に連載した(平成の)コラム(上 言視舎)をくわえて、毎度毎度、トイレで読み返している。
 2 楽しみのひとつは、ネットサーフィンではないが、Firefoxで、井上陽水などの唱を聴くことだ。なかに混じって、タモリが出演した、20分「講演」があった。そこに、キルケゴール『不安の概念』をネタにした、「実存」哲学の核となる考え方が披瀝された。あまりに見事なのに驚かされることしきり……。
 そういえば、あのドラッカーは、若き日、キルケゴールの実存思想に強く影響を受け、『「経済人」の終わり』を書き上げ、ナチの手を逃れて、ロンドンに、さらにニュヨークへ亡命した。その本こそ、史上最初の本格的なナチズム批判であった。わたしは、もし「頭」が許すなら、最後の最後にドラッカー論を書き残せたら、と思念している。ま、もう、「頭ボロボロ、こぼれるから……」だが。

読書日々 1166 「西東京」市vs.「東札幌」市 

◆241011 読書日々 1166 「西東京」市vs.「東札幌」市
 1 早朝、寒くて目が覚めた。昨日はよくよく寝たので、その反動か?
 上の娘家族は、東京にいる。気温もぐーんと下がって、ずいぶんしのぎやすくなったに違いない。こちらも、早朝の気温はぐんとおちるが、いまは暖房器を消すほどには、室内は暖かくなった。
 この季節の急激な変わり目で、いつも風邪気味になる。ところが今年は、風邪薬が手に入りにくい。というか、風邪薬値上作戦のためか、「小瓶」販売に転じて、実質値上げを果たす戦術らしい。
 わたしは、通常、長沼の中村薬局の感冒薬を長年服用してきたが、なにかまうものか、とパブロンSを求めてもらったが、ピンとこない(ありがたみが薄い)ね。
 2 いま書いている「2都物語」は、東京と札幌で同時に始まる、「ひばりヶ丘団地」に端を発する。東京の「ひばりヶ丘団地」は、田無と保谷の合併で生まれた「西東京」市の誕生を飾った。が、「平成の市町村大合併」のとき、「西東京市」と聞いて、ピンとこなかった。そう言えば、北海道はこの大合併で、「212→178=34」しか合併がなかったが、全国では「3232→1821=1311の合併があった。わたしは、「西東京」市と聞いてピント外れじゃない、と思えたが、じゃあ、「東札幌」はどこか? と自問してみた。「札幌市内に、「東札幌」はある。地名にすぎない。
 3 ①ベストが、千歳+恵庭だろう。
 当時長沼に住んでいたこともあって、②栗山・由仁・長沼・南幌じゃ、「西東京」より影が薄い。
 ③岩見沢・栗山・由仁・長沼・南幌、それに江別なら、かなりいけると思えたが、江別が断るだろうし、岩見沢は「岩見沢」の名にこだわるだろう。
 じゃあ、どこがベター? ④北広島じゃない、長沼をくっつけてもいいじゃないか。
 ここまで来て、なんだ、すでに「東札幌」はあるじゃないか? 「新」札幌(「副都心」)である。その新札幌が、「ひばりヶ丘団地」に端を発する。……
 札幌のひばりヶ丘団地は、平岸の「この花団地」と同時期、札幌の人口増対策の最初の「一手」だった。「駅前団地」(東宝)を再見したくなるね。

読書日々 1165 「大阪は臭いね」

 10月に入って、一気に涼しくなった。新しい上着を購入してくれたが、たしかに軽く暖かい。
 この1週間、風邪気味なのか!? パッとしない。ま、愚痴に近いが。
 1 「二都物語」を書き始めた。パリとロンドンの「二都」物語ではない。古今東西、どこにでも「二都」物語は存在する。私が生まれた「厚別」には古くは「旭町」と「東区」の、白石村には厚別と白石の、「二都」物語があった。
 少年期、何かにつけて、白石小・中学と信濃小・中学校の対抗「戦」があった。いつも、明治維新で敗軍となった伊達支藩白石藩の名残が、旧武士を振りかざすような言動を見るにつけ、ドン百姓の末裔であるわたしたちは、妙に震えたものだった。
 ま、いい時代に生まれたもので、わたしは越境入学して、白石組と対抗する必要のない高校に進んだので、どうやって、家郷のガラクタを振る払おうか、などという不遜心に支配され、大阪くんだりまで流れていった。
 2 後年、梅棹忠夫をインタビューして、一冊にするプランにのってお会いしたとき、大阪からは「くさい臭い」がやってくる。どうもやっかいだね、といわれた。わたしは、梅棹さんの書いたものを敬愛しているので、その人物にさほど関心がなかったが、たしかに、大阪も、私も、十分にくさいと納得するところがあった。大阪「臭」は、わたしでも「うっ」とすることがあるが、私自身が20年余、ご当地で得てきたものでもあった。
 3 60年代末、大学闘争の末期、東大で、大学院全国協議会が開かれたおり、私のブロークンな大阪弁で、対論者を辟易させることがあった。その言動がいかにも「くさい」からだ。(ただし、私自身は、東京人を私同様の田舎っぽ、とみなしていたが。)
 少年期、私ももう少し「臭く」、二重感情で言動することができたら、何のことはなかったのかもしれない。梅棹さんのように、はんなりと強靱に、一見、単純明快に振る舞えたのに違いない。

読書日々 1664 死に目に会うと…… 

◆240927 読書日々 1664 死に目に会うと……
 1 長く生きていると、多くの死に会う。肉親のなかで、姉2人を除いて、最年長になったのではないだろうか? なにせ、父も母も、大家族の長男長女であった。しかも、父の生家(敷地)でなくなった。もっともわたしは、両親の「死に目」に会えなかった。関西に23年暮らし、ようよう札幌大学に職を得たのにでだ。最大の親不孝か?
 いままた妻規子の妹が亡くなった。家族だけで、見おくった。先年亡くなった私の実妹の子供2人も加わって、少ないがいい葬式であったと思える。ま、わたしは尻尾について移動するだけであったが。もっとも、いつものように、缶ビール2本を飲んでいた。
 妹2人は、山坂のあった人生を、振り返れば、はやく連れ合いを失ったが、気持ちのうえでは「淡々と」生きたと思える。
 2 妻の生家は、野幌原生林内に、敗戦後鍬を入れた。でも、農事にむかず、「でもしか教師」に、私の中学時代の「恩師」になった加藤先生で、48歳で亡くなった。多くのものをわたしに残してくれたが、最高の贈り物は、妻であった。結婚してから定職を得るまで、5年余、そして超低給の短大教師だった伊賀での8年間、この13年間を全力で私の我意を支ええてくれた。というか、こどもたちを過なく育んでくれた。
 3 自民党総裁選挙は、今日「結果」を迎える。不謹慎ながら、巨人が優勝するかどうかの瀬戸際を迎える日々でもある。
 だれが総裁になろうと、自民党の先行きは不透明部分が多いが、逆にいうと、民主主義だ。「訂正」すればOKである。ガラガラポンで、豪腕小沢を、変人小泉が圧倒した時代をにわかに思い起こした。「刺客」や「女性」が束になって進出するチャンスを与えたっけ。
 わたしは、当時、小泉は小沢の「日本改造計画」を下敷きにした、と書いたが、進次郎はどうかな? 小泉は、政治家4代目である。「変人」ではなく、まともすぎるね。そこが青くていいが。

読書日々 1663 加湿器のこと

◆240920 読書日々 1663 加湿器のこと 
 1 はっと気がついたら、夏は終わっていた。火がほしい。だが、加湿器を掃除しなければ、と思っていたが、手につかない。それを知ってか、妻の規子さんが、ちゃっちゃっとやってくれた。有り難い。毎年、加湿器には悩まされてきた。それが、昨年、購入してくれたものが、安くてしかも簡単明瞭。わたしにとっては「神器」に等しい。加湿器では、毎年困惑させられてきたのに、何の支障もなく、快調に冬期を過ごすことができた。といっても、1年のおよそ半分だ。
 生来の乾燥肌で、これまでずーっと苦しめられてきた。それが解消したのだ。北海道に戻って40年余、初めての経験だった。あとはガスヒーターを点火するだけでいい。ほっとしたところだ。
 長沼にいたとき、早朝起き上がり、書斎に降り、灯油ヒーターに点火するとき、部屋は10度を切っているのが常だった。常温、20度にまで上がるのは、正午近くではなかったろうか。若かった(?)から耐えることが出来た(!?)。もう、その「体力」も「気力」もない。今日も厚着している。
 2 息子も、同じアパート(別室)にいる。もちろん「店子」で、独身生活を続けている。それに、「暖房」を入れたことがないらしい。というか、息子の部屋に入ったことはないので、確認したわけではないが。
 息子は、同じ大学を出て、その後、アメリカの大学に留学し、情報技術を身につけて帰国し、現在はそれをいかしている。まさに独立独歩のたたずまいだ。
 わたしといえば、おのずと、老齢もあって、眼と手を痛めてしまった私設パソコン「管理」(コンとトール)役を引き受けてくれている。この年でも、書くことを続けておれるのも、息子のおかげだ。
 3 昨日、「二都物語」を書き始めた。札幌と東京にある「ひばりが丘団地」を嚆矢とした、副都心の「情景」を活写する一歩を刻むことができた。今も団地にその名をとどめている、「馬場牧場」に触れたが、私が学んだ信濃中学の同級生に、馬場さん、亀田君、山根君がいて、一家はともに「牧場」を営んでいた。その3人は、若くして「自死」したが、いずれも忘れがたい記憶が残っている。